【正論】トランプ氏に米国の理念はない |
下記は、産経新聞2016年3月24日付に載った「正論」コラムです。ここにも転載しておきます。
【正論】 トランプ氏に米国の理念はない
島田洋一(福井県立大学教授)
トランプ旋風には実は前例がある。1992年、共和党エスタブリッシュメント(既存エリート層)に推され、再選を目指した現職のブッシュ(父)大統領は二つのアウトサイダー旋風に見舞われ、最終的に民主党のビル・クリントン候補に敗れた。
一つは、厳しい移民政策と孤立主義外交を掲げた評論家パット・ブキャナン氏の出馬で、ブッシュは予備選の序盤かなりの苦戦を強いられる。
続いて本選に入ると、経営者感覚による政財官談合政治の打破を掲げた実業家ロス・ペロー氏が名乗りを上げ、一時は共和、民主の公認候補をしのぐ勢いを見せた。トランプ現象にはこのブキャナン氏とペロー氏を合わせた二重旋風の気味があり、乱立した共和党「主流派」候補たちが次々吹き払われていったのも不思議ではない。
さらに今回はテッド・クルーズ上院議員というもう一つの旋風も吹いた。クルーズ氏は、「自己責任」を掲げる草の根保守運動ティー・パーティの申し子的存在で、自党の幹部をも、「ワシントン・カルテル」の腐敗メンバーと名指しで批判、純粋保守の立場から共和党内を揺さぶり続けている。
候補がトランプ、クルーズ両氏に絞られる中、共和党の多数がトランプ氏に対して抱く疑念は、まず「大統領のような言葉遣いだけはするな」と子供に言わねばならないような人物を選んでよいのか、いう点である。「きれいごと抜きで勤労アメリカ人の利益を守る」という主張は分かるとしても、きれいごと抜きと品格抜きは違う。大統領選と共に、下院(任期2年)全議席と上院(任期6年)3分の1議席の改選も行われる中、日々、暴言の弁明に追われるようでは選挙は戦えない。
さらに、リベラル都市ニューヨークを拠点とし、過去の大統領選でカーター氏、ケリー氏、ヒラリー氏など民主党候補を資金面で支援、現夫人との三度目の結婚式(2005年)ではクリントン夫妻を主賓としたトランプ氏が、いくら保守主義への目覚めをアピールしても信用できないとする党内一般の根強い忌避感がある。
一方、クルーズ氏に関しては、競争阻害的な業界保護法や補助金に拒否権を発動すると公言していることから、「クルーズだけは大統領にするな」と地元利益集団から突き上げを受けている議員が多い。
トランプ氏は大統領になって一体何をしたいのか、もしばしば発せられる問いである。この点、彼は作年11月出版の著書(未邦訳)で答を示している。すなわち、「米国史上例を見ない巨大なインフラ整備プロジェクトを最優先課題とする」である。「経済を刺激するのに建設以上のものはない。絶対にない。そしてこの国家的大事業をやれるのは、無数の開発プロジェクトで結果を出してきたドナルド・トランプだけだ」。
トランプ氏が共和党から立候補したのは、環境保護派の多い民主党では自分の夢を実現できないとの思いに拠るとも言われる。しかし、トランプ大統領の外交安保政策は一体どうなるのか。
トランプには(よく喩えられるが)ヒトラーのような破滅的な軍事拡張主義はない。むしろ対外介入を極力減らし資金を国内の土建事業に回す、同盟国が米軍の抑止力に頼りたいなら経費を負担せよがトランプの主張である。2兆ドルを費やしたイラク戦争を「私は未だに理解できない」、せめてイラクの油田を手中に収め戦費や傷病兵の治療費に充てるべきだった、アメリカは「カモおじさん」(Uncle Sucker)たることをやめねばならない――。身も蓋もない功利主義だが、トランプで懸念されるのは無謀な軍事介入というより、むしろ全体主義勢力との理念なき手打ちだろう。
トランプは「特に中国に注意を払わねばならない」と次のように述べる。「中国を敵と呼ばないで、と私に求める人々がいる。しかしまさに中国は敵そのものだ。低賃金労働や為替操作でアメリカの産業を破壊し、職を奪い、企業にスパイを入れ、テクノロジーを盗んでいる。…そうしたことはもはや許さない」。その一方で、天安門事件を「暴動」と呼び、「中国政府は邪悪だが力を示した」と語るトランプ氏に、米国は自由の戦いの先頭に立つといった理念的姿勢は望めない。
トランプ氏とヒラリー氏の大衆迎合合戦という極めて質の低い選挙戦になる勢いだが、世論調査では目下約10ポイント、ヒラリー氏がトランプ氏をリードしている。しかしレーガン候補がカーター大統領に圧勝した1980年11月の大統領選では、3月の時点でカーターが20ポイント以上リードしていた。何が起こるか分からない。日本はトランプ政権を視野に、安全保障問題を中心により自律的姿勢を強めていくべきだろう。