「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(18・完) |
以下は、旧稿「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(『政治経済史学』259、260号、1987年)のつづきで、最後の部分である。これでこの論文の連載は完結する(以前の掲載分は、この画面左のフォルダ「論文集」中にあり)。
第4章 第四節
五月七日、最後通牒発出と同時に、加藤は、列国に対し、その内容について通知を行った。二日後の五月九日、中国側が最後通牒を受け入れ、交渉はここに一応の決着を見る。それから更に数日を経た十三日、外務省を訪れた米国代理大使ホイーラーから、一通の覚書が加藤に手渡された。即ち、アメリカの「不承認宣言」として知られるところの文書である。以下に、その全文を引いておく。
American Embassy at Tokio to the Gaimusyo
In view of the circumstances of the negotiations which have taken place and which are now pending between the Government of Japan and Government of China, and of the agreements which have been reached as a result thereof, the Government of theUnited States has the honor to notify the Imperial Japanese Government that it cannot recognize any agreement or undertaking which has been entered into or which may be entered into between the Governments of Japan and China, impairing the treaty rights of the United States and its citizens in China, the political or territorial integrity of the Republic of China, or the international policy relative to China commonly known as the “Open Door Policy”.
An identical note has been transmitted to the Government of Chinese Republic.
(Above note was handed on May 13, 1915 by Mr. P. Wheeler, United States Charge d'Affaires at Tokio, to Baron Kato, Minister for ForeignAffairs.)
この通告書に接して、加藤は、アメリカの真意を測りかねたようである。数日前に最後通牒の内容を通知してあり、そこでは、アメリカが問題とした項目はすべて落とすか、米側の意向を容れて修正が加えられている。仮に、新たに異議があるとしても、それなら具体的に指摘してくるのが当然であろう。加藤は、その場でホイーラーに事情を尋ねると共に、珍田に対し、詳しく米側の意向を探るよう指示を発した。
五月十三日、在本邦米国代理大使来訪、……覚書を提出せるに付、此際かかることを申入れらるる米国政府の動機如何と尋ねたるに、代理大使は、何等承知する所なきも、単に Keep on record の為に非ずやと想像すると述べたり。不取敢電報す。尚、右覚書提出に関する米国政府の動機及び真意に付、御意見電報ありたし。
同日ブライアンに面会した珍田は、加藤に対し、次のような報告を送っている。( )内は原文。
……長官に向ひ、右覚書中には「既に妥協を見たる約束に関し」云々とある所、米国政府は右約束中のある特定の点に対し何等故障を有する訳なりや、と尋ねたるに、長官は、唯事前の注意(precaution)の為め米国政府の態度を申入れたる次第なりと答えたるに付、本使は、交渉の内容は是迄既に説明したる通なるを以て此上注意を要せざるべしと述べたるに、長官は、大体は既に承知し居るも、約束の詳細の点は尚未だ判明せず、大統領も事前の注意のため此際米国政府の態度を記録に存し置くを可とするの意見なるを以て、前記覚書の通り申入れたる次第にて、在日本米国臨時代理大使は既に右電訓を執行したりと語れり。
ここにある「事前の」という言葉に注意したい。中国側の最後通牒受け入れは五月九日だったものの、細部の詰めを終えた正式の取極文書が公表されたのは、五月二十七日であった。すなわち、米側が「不承認」通告を行った五月十三日は、日本側からの内容通知はあったが、正式発表はまだ、という段階だったのである。その意味を論じる前に、続いて、もう一つ史料を引いておきたい。これは、五月十七日に再度米側が発した対日通告である。
American Embassy at Tokioto the Gaimusyo
Tokio, May 17, 1915
The United States Government has the honor to inform the Imperial Japanese Government that it takes it for granted that the Japanese Government will notify it of any provision in the treaty now under negotiations between the Imperial and the Chinese Governments,by which any change in the status of foreigners in China is recognized by the latter Government. The United States Government will be enabled by such notification to share any privileges which may accrue under the most favored nation treatment.
(Above note was handed on May 17, 1915 by Mr. P. Wheeler, UnitedStates Charge d'Affaires at Tokio, to Mr. K. Matsui, Vice-Minister for ForeignAffairs.)
この通告書が手交されてから約十日後の五月二十八日、外務省を訪れた英国大使と、加藤は次のような会話を交している。
……英国大使来省の際、対支交渉問題に関し米国政府より又々何か申出ありたる様伝聞する処、果して右様の事実ありやと質問したるに付、大臣は未だ御話せざりしやとて話を進められたるに、……大使は、今に至り斯くの如き申出を為し来る真意の在る所解し難し、何等回答せらるる御考なりやと述べたるに付、大臣は、別に回答する考に非ず、事後の今日承認するとかせざるとか云ふことも、 take for granted などと云ふことも外交の照会に合はず、普通の文としても不完全たるを免れず、と答えられたり。
この中で、加藤は「事後」という言葉を用いている。即ち、加藤の認識では、五月九日の中国側の最後通牒受諾で事は終了しているのであり、それ故、五月十三日及び十七日の米側通告は「事後」ということになる。ところが、米側の認識では、内容についての確認が取れるまでは「事前」なのである。この認識の相違は何を意味するか。「take it for granted (……を当然と考える)」という、「外交の照会に合は」ない強い表現が事情を端的に物語っている。
つまり、米側通告の真意は、「今度もまた伏せられた項目などがあるかも知れず、日本からの通知だけでは信用出来ない、もし門戸開放原則に反するような条項があると分れば、それは承認しない」ということにあった。史上に名高い「不承認宣言」は、実は「不承認」というより「不信用宣言」なのであった。
翻って、三月十三日付ブライアン・ノートを想起したい。これは、満蒙関係始め日本側が最重視した権益をすべて認めたもので、その点、画期的な意味を持つ通告だったと言える。もし加藤が、不要不急の項目を捨て速やかに交渉をまとめていれば、アメリカの対日態度としてはブライアン・ノートの線が記録に残されることになったろう。
満蒙に於ける「特殊地位」に国際的承認を得る、という当時の日本の国策に照らせば、これは大きな成果だったはずである。ところが、第五号第三項や第三号第二条を巡って失態を重ねたあげく、対日「不信用」通告を呼び込むことになった。それが爾後、アメリカの対日「不承認宣言」と理解され、この認識ギャップが中国をめぐる日米関係にさまざまな悪影響を及ぼすことになった。
加藤の外交指導は、歴史の大きな流れに照らして、さらには当時の国策の観点から見ても、実に大きな失敗であった。
結論
「打つ手打つ手が裏目に出る」、「無理が無理を生む」、「エラーがエラーを呼ぶ」。思わぬ大敗を喫する時に使われる言い回しである。
「二十一カ条」は、外交の場におけるこうした大敗の典型例、外務省の歴史の中でも特筆すべき、情報戦における失態の連続例と言えよう。
発端は、二十一もの項目を一度に並べたことにあるが、二十一という数字が必ずしも多いとは言えない。例えばアメリカからの対日要求を「希望」まで含めれば、常に二十一は越えるだろう。ただ当時日本は、列強が第一次大戦で忙しい中、中国での権益拡張に出るのではないかと警戒の目で見られていた。そうした中、大した内容を持たない項目まで含め、同時に一枚の紙に列挙して交渉を求め、かつその一部を伏せることで疑惑の火に油を注いだ。
加藤高明外相もその状況を意識していなかったわけではない。それゆえ、一部項目を「要求」から外し、「希望」としたのである。交渉開始直後、駐日中国公使と会見した加藤は、日本の要求は「四大項目より成」る、とした後、次のように述べている。
今後交渉中には種々の論議も出づることとなるべきも、袁大総統初め貴国当局者に於て、内心は我要求の意外に寛大なるに驚き居らるる位には非ずやと思ひ居れり。又、或は御承知ならんが、自分は性格上駆引めきたることは至て出来ざる方なれば、今回の提案の如きは正に最小限にして一歩も譲るべき余地を存するものに非ず。
ところが、この緩和措置が却って裏目に出る。まず、希望条項を設けたことで、希望というならこんな項目も、という安易な発想を生み、逆に項目の全体数を増やす結果を招いた。更に、希望まで列国に内示する必要はないだろう、との考えから、実質的に一部を秘匿する格好になった。希望については一括して拒否する、という態度を中国側に取らせ、交渉を徒らに紛糾させる元となった。そのことは交渉の遅延につながった。
加藤には、いたずらに要求項目を増やす気持ちはなかったが、重要地域での重要項目にだけ絞り込む決断力もなかった。列国への通知も中途半端で、早晩中国側から正確な情報が漏れることをなぜか意識できなかった。
加藤は希望条項すべてを押しつけようとはしていない。各項目の性格に応じて、あるものは撤回し、あるものは一方的に勧告声明を発する形にし、その他の項目もみな相当な緩和を施している。加藤の意識では、希望に過ぎないという当初の言明を自分は守っている、ということだったろう。そしてここまで譲歩しているのに、なお応じない中国側は理不尽との思いを強めていったようである。「此上第五号に付我方に於て譲歩を為すが如きことあるに於ては、支那側は益々付け上り、我方の足元を見透かすこととなる義なるを以て、到底譲歩を為すこと能わざる次第なり」という大詰めの段階での言葉にその心情が現れている。それなりの是正措置を採りながら、交渉の各段階で失態を重ねた結果、火事場泥棒的外交という印象を定着させてしまった。
「二十一カ条要求」という言葉は中国側の宣伝文句であって、日本人までがその尻馬に乗って使うのは不見識である、という加藤が後に述懐した言葉には、確かに一理ある。しかし、「二十一カ条要求」という言葉が人口に膾炙したのは、第五号及び第三号第二条を列国に内告しなかった加藤の措置に起因している。つまり、「日本は列国には十一カ条しか知らせていないが、本当は二十一カ条ある」という形で、中国及び諸国の報道機関が使い始めたのであり、加藤が一部項目を伏せていなければ、あるいはこの言葉は生まれなかったかも知れない。
加藤の外交指導には官僚的硬直も顕著である。四月十五日に中国側が自らの東蒙問題における譲歩と日本の第五号撤回の取引を匂わせた際の加藤の反応が、その点、象徴的と言える。加藤は、東蒙問題は「種々の点に於て南満州と情勢を異にするは争うべからざる事なるにより」逆に日本の方からもう少し譲ってもよい、第五号は四月十二日付訓令(「最後譲歩案」と同じ内容)の線までしか譲ってはならない、即ち、東蒙問題は東蒙問題で、第五号は第五号で、それぞれ同程度に双方が歩み寄ることで決着を付けよとの指示を出している。実に融通の利かない姿勢である。
ともあれ、加藤高明外相が指導した「二十一カ条」交渉は、特に情報戦の観点から、日本外交にとって負の教訓の宝庫と言えよう。
【資料 日本側原案】
[第一号] 山東問題の処分に関する条約案
日本国政府及支那国政府は、偏に極東に於ける全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し、ここに左の条款を締結せり。
第一条 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。
第二条 支那国政府は、山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を、何等の名義を以てするに拘らず、他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約す。
第三条 支那国政府は、芝罘又は龍口と膠州湾より済南に至る鉄道とを聯絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。
第四条 支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約す。
[第二号] 南満東蒙に於ける日本の地位を明確ならしむる為の条約案
日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するにより、ここに左の条款を締結せり。
第一条 両締約国は、旅順大連租借期限竝南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九十九カ年づつ延長すべきことを約す。
第二条 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得。
第三条 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得。
第四条 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其採掘すべき鉱山は別に協定すべし。
第五条 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。
(1)南満州及東部内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与へ、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
(2)南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起すこと
第六条 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先づ日本国に協議すべきことを約す。
第七条 支那国政府は本条約締結の日より九十九カ年間日本国に吉長鉄道の管理経営を委任す。
[第三号] 漢冶萍(かんやひょう)公司に関する取極案
日本国政府及支那国政府は、日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み、且両国共通の利益を増進せんが為、左の条款を締結せり。
第一条 両締約国は、将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となすこと、竝支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざるべきことを約す。
第二条 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては同公司の承諾なくしては之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、竝其他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置を執らんとする場合には先づ同公司の同意を経べきことを約す。
[第四号] 中国の領土保全の為の約定案
日本国政府及支那国政府は、支那国領土保全の目的を確保せんが為、ここに左の条款を締結せり。
支那国政府は、支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せざるべきことを約す。
[第五号] 中国政府の顧問として日本人傭聘方勧告、其他の件
一、中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
二、支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。
三、従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警 察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。
四、日本より一定の数量(例へば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。
五、武昌と九江南昌線とを連絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。
六、福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場 合には、先づ日本に協議すべきこと。
七、支那に於ける本邦人の布教権を認むること。
【略年表】
1914(大正三)年
七月三十日 第一次大戦勃発
八月二十三日 対独宣戦布告、参戦
十一月七日 山東駐留ドイツ軍降伏、膠州湾占領
十一月十一日 臨時閣議にて、対支交渉案了承
十一月十八日 加藤、対支交渉案に付き、山県に内話
十二月二日 対支交渉案内奏、裁可
十二月三日 加藤、日置に対し交渉案訓令
1915(大正四)年
一月八日 加藤、井上(駐英大使)に対し要求書(第五号、第三号第二条を除く)を通知一月十八日 日置、袁世凱に対し要求書提出、交渉開始
一月二十二日 英外相に要求案(第五号、第三号第二条を除く)を内告
二月二日 第一回会議
二月上旬 米露仏政府に要求案(第五号、第三号第二条を除く)を内告
二月十日 英大使、第五号秘匿について加藤を非難
二月十二日 中国側、第一回対案提出
二月十六日 「最終譲歩案」(第一修正案)閣議決定
二月十七日 加藤、井上に第五号内示
二月十九日 加藤、井上に第三号第二条「暗示」
二月二十日 英国政府に第五号内告
二月下旬 米露仏政府に第五号内告
三月九日 第五号第三項(警察)撤回(第八回会議)
三月十日 英国、第五号第五項(南支鉄道)について異議提出
三月十三日 米国、ブライアン・ノート提出
三月二十五日 衆議院総選挙
三月二十七日 第五号の討議に入る(第十五回会議)
四月十二日 加藤、第五号譲歩案を日置に通知
四月二十日 「最後譲歩案」(第二修正案)閣議決定
四月二十一日 加藤、「最後譲歩案」を山県に内示
四月二十二日 加藤、「最後譲歩案」を日置に通知
五月一日 中国側対案提出
五月四日 元老閣僚会議、閣議
五月六日 元老閣僚会議、御前会議、最後通牒決定
五月七日 最後通牒手交
五月九日 中国側、最後通牒受諾
五月十三日 米国、「不承認通告」
五月十七日 米国、再度の通告
五月二十五日 調印
六月八日 批准交換
六月九日 条約文公表

