「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(16) |
第3章 第六節 交渉過程―初期―(つづき)
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さて、前述の通り、二月二十二日から日中は逐条討議に入ったが、第一号から順に進められたため、第五号が(中国側の抵抗を遂に押し切って)議題に上ったのは、三月二十七日(第十五回会議)以降のことである。すなわち、一カ月以上再考の機会があったわけだが、結局加藤は方針を変えなかった。
この段階で、日本側は大変拙い行動を取る。とりわけ重視する第二号(満蒙関係)で交渉がはかばかしい進展を見せなかったため、三月中旬、威圧手段として山東駐留部隊の増強を行ったのである。交替要員の派遣時期を早める、との口実が使われた。ところが、間が悪く、この軍事的示威行為が採られた時期に、丁度交渉は第五号に入る運びとなった。そのため、希望条項の無理強いを専らの目的として軍事的威嚇手段に出た、と見られることにもなったのである。事態は一層不利な方向へ傾いたと言わざるを得ない。
三月二十七日の会議では、議論の最後に至って第五号に入り、まず第一項(顧問)が論議された。ここで日置は、二月十六日付「最終譲歩案」の訓令に基づき、「強て文書に取極め置くことを見合せ」、顧問傭聘の拡充を勧告する旨の声明を一方的に発することで、この案件の決着とした。
尚、これ以前、三月九日第八回会議において、第二号第六条との関連で第三項(警察)の撤回も声明されている(前章参照)。つまり、本格的に第五号の討議に入った三月二十七日の時点で、話題に上った第五号の二つの項目のうち二つとも、日本側が自発的に取り下げているわけである。
おそらく中国側は、第五号は日本の方もさして重視しておらず、このまま抵抗を続けていれば相手の方で順に引っ込めていく、との見方を強めたのではないか。ところが、日本側「最終譲歩案」で取極不要とされていたのはこの二項目だけで、他の項目は(項目ごとに差異はあるものの)いずれも文書の形で約束を取り付け置くこととされていた。
他方、これとは逆の方向の動きもあった。中国側も、第五号は一括拒否との原則を崩し、一カ条(第六項)だけ取極に応じたのである。また、もう一項目(第二項)、「前向きの発言を行った旨を会議録に残す」という形なら差し支えない、と譲歩姿勢を見せたものもあった。これらのことが、加藤に、他の項目も粘れば行けるという感触を与えてしまったように思われる。
そこで、中国側が唯一取極に応じた第六項について若干見てみたい(第二項を巡る問題は後述)。これはアメリカの調停に乗る形で取極に至ったものである。
日本側の原案では、福建省における鉄道・鉱山・港湾設備等に関して外国資本を必要とする場合には「先づ日本に協議すべきこと」とされており、要するに、投資優先権を求める趣旨であった。が、加藤の主眼は、寧ろ、台湾(日本領)の対岸に位置する福建に列国殊にアメリカが海軍根拠地を設けることを阻止したいという点にあり、ただそうは露骨に書けないため表現を緩めた、という事情であったらしい(アメリカのそうした計画は、事実過去に何度か表面化している)。
案の定、アメリカから、第六項は機会均等原則に反するとの異議が出る。その際加藤は、この項目の真意は米海軍の進出阻止にあり、米側がそうした計画を捨てない以上、日本側がこのような対抗措置を講ずるのも自衛上当然である、と反論を加えた。すると意外にも、米側は、それなら「福建省沿岸における軍事施設建設を如何なる国にも許さない」との趣旨の日米中三国間で取り決めてはどうか、と調停案を出してくる。加藤は、「我原案に比し寧ろ有利」(日置宛電報)との認識から早速これを受け入れることにした。一方、中国側も、「如何なる国にも許さない」ということなら、日本なども当然その中に含まれるわけで、それならむしろ好都合、との判断に基づき、取極に応じてきた。双方の利益が意外な形で一致したわけである。
アメリカが調停案を出し、日中双方の利害が一致するという、「二十一カ条」中でもユニークな経過を辿った項目であったが、ともかく、第五号は一括拒否という中国側の原則がここで崩れた形となり、そのことで、加藤が第五号の他の項目にも固執する一因を為したものと思われる。
第七節 交渉過程-最終局面-
以後の中間過程はアメリカとの関係が重要になるため次章に譲り、以下、交渉の最終局面を見てみたい。ここでは、イギリスとの関係が、とりわけ重要な意味を帯びてくる。
イギリスも当初から、第五号には警戒の目を向けていたが、特に第五項(南支鉄道)については、既得権益の侵害であるとして、三月十日、文書で正式に抗議を申し入れてきた。ところが加藤は、内容を緩めたとは言え、この第五項にあくまで固執し、最後通牒にまで入れようとした。最後通牒発出となれば、日中開戦も有り得、その際同盟国イギリスの支持は欠かせぬ要素のはずである。にも拘らず、なぜそこまで固執したのか。「二十一カ条要求」における加藤の行動中、大局的見地から最も理解しがたい点の一つである。しかも、加藤は親英派の中心とされてきた人物だけに、一層不可解の度は増す。以下、この点の経緯を中心に、第五号の最終的な処理局面を見て行きたいと思う。
先にも触れた通り、第五号七項目のうち、第三項(警察)は途中で撤回され、第六項(福建)はアメリカの調停に即して取極に至っている。また、第七項(布教権)も、四月半ばには、事実上取り下げられたと見てよい。
従って、日本側が最後まで固執したと言えるのは、第一項(顧問-一旦決着したはずが、最後に再び蒸し返された)、第二項(学校・病院土地所有権)、第四項(兵器供給)、第五項(南支鉄道)の計四項目である。
これらの何れも、四月十二日付訓令に示された線が譲歩の最終限度とされ、以後四月二十二日付「最後譲歩案」(二月十六日付「最終譲歩案」と紛らわしいが、「最終」の方があくまで日本側内部の腹案であるのに対し、こちらの方は実際中国側に最後の譲歩案として示されたものである。なお、混乱を避けるため、以下必要に応じて「第一修正案」、「第二修正案」といった言い方も用いる)、五月六日付「最後通牒」でも、そのまま踏襲されている。 そこでまず、四月十二日付訓令の内容を見ておこう。尤も、「貴電第○○号の通り」という形で説明が省略されている箇所も多いため、適宜説明を補っておく。
第一項 (三月二十七日第十五回会議の席上、中国側が述べたところの)「将来に於ても必要の場合には必ず日本人を傭聘すべき旨」の意味を会議録体に認め双方記名し置くこと。
第二項 (四月一日第十七会議の席上、中国側が約束した)「日本人が支那内地に於て学校病院を設立する為土地を租借購買せんとする時は、中央政府之を允許すべし」(との趣旨を会議録体に認め、双方が記名しておくこと)
第四項 (四月十日第二十一回会議の席上、中国側が、実は政府の内議で次の如く決定している、として述べた)「他日適当の機会に於て支那より陸軍武官を日本に派し、日本軍当局者と直接兵器購入若くは合弁兵器設立のことを協議すべき旨」を会議録体に認め双方記名するか、又は右に付文書の交換を為し置くこと。
第五項 南支鉄道に付ては、他外国に於て故障なきこと明なるに至りたる場合には必ず日本国に許与すべきことを約すか、又は本件は全然今回の交渉より引き離し別に日本国に於て直接支那側の所謂本件関係他外国との間に話を纒むべきに付、右纒まる迄は本件鉄道は何れの国へも許与せざるべきを約すること。右約束も前記の如く会議録体に認むるか又は文書の交換とすること。
まず、「会議録体に認め双方記名し置くこと」という形式によれば合意が可能と加藤が判断した理由だが、四月一日に第二項を討議した際、会議録形式ならということで、中国側が一応の同意を表明した経緯があった。中国側の同意はあくまで第二項に限ってのものだったが、加藤は、他の項目もこの形式でまとめられると判断したものと思われる。一旦決着を見た第一項を蒸し返したあたりに、そうした加藤の心事が見て取れよう。
第一項(顧問)は、三月二十七日、文書化を見合わせ一方的に勧告声明を発することで打切りとされていた。何度か触れた通りである。ところが、四月十二日付「最後譲歩案」(第二修正案)では、「会議録体に認め」云々と再び文書化を求める形になっている。この蒸し返しは、四月一日の会議の席上、中国側が第二項に関して会議録方式を認めたのを受け、それなら他の項目も、との期待から為されたと考えられよう。
問題は、この対応の妥当性である。以下、項目ごとに、具体的に検討していきたい。
まず第一項であるが、この項目の処理については、加藤の指示は不適切だったと言うほかない。まず一旦決着したものを蒸し返すこと自体、問題だが、将来も日本人顧問が必要な時には必ず傭聘せよという内容面でも意義が認められず、交渉のルールを侵してまで主張する必要があったとは思えない。
必要な時に傭聘するのは当然だし、逆に、中国側が必要でないと言えばそれまでだから、取極があろうが無かろうが同じことである。実際、文書による取極などなく、従来、顧問傭聘が実行されていた経緯に鑑みても、摩擦を起こしてまで改めて文書化を求める必要は認めがたい。特に顧問問題は、文書を以て約束することは出来ない旨中国側が終始明言していたものである。面子からか、些事にこだわったと評するほかない。
あるいは、一人相撲に陥ったと言えるかも知れない。加藤も当初は、特に文書による取極を意図せず、単にいま以上に日本人顧問を雇ってはどうか、との勧告として出した、ところが中国側が第五号一括拒否の方針に出た結果、この勧告も蹴られる形となり、そうなると逆に、「今後日本人顧問は雇わない」と中国側が宣言したようにも取られ兼ねないため、何とか形を付けようとした。要するに、薮蛇になったのではないか。
それでも、始めの修正案通り、一方的な勧告声明の形で収めていれば、浅い傷は浅くて済んだろう。ところが、最後に再び文書化を持ち出した結果、再度の拒絶に会い、一段の薮蛇となった。しかも、文法上の曖昧さから「外国人顧問が必要な場合には必ず日本人を傭聘すべし」との意味に理解したアメリカが、「原案以上に機会均等に反する」との異議を申し入れてくる事態まで招いた。加藤が固執した四項目中、外交的に最も無意味有害な一項であったと言わざるを得ない。
続いて第二項を見てみる。
第二項は、原案では「病院・寺院・学校に対する土地所有権」となっていたが、中国側が第七項(布教権)を強く拒否したため、その関連で「寺院」が外され、病院・学校だけが討議の対象として残っていた。既述の如く、この項目は殆ど纒まるところまで行っている。四月一日会議の模様を報告した日置の電報から一節を引いておくと、
陸は種々弁論をなし、容易に応諾の意を表するを肯んぜざりしも、彼我の間に熱心なる論争をなしたる結果、支那側は遂に、学校は小中学校程度の普通国民教育以外の学校、又病院の如き慈善的事業は支那内地に於て之を設立する事を主義上認諾するも、文書を以て約するを得ずと述べ、更に数回の押問答の末、結局、日本人が支那内地に於て学校病院を設立する為土地を租借せんとする時は中央政府は之を允許すべしとの趣旨を会議録体に認め記事の正確を認め置く意味に於て高尾書記官及施秘書官之に記名し各一通宛外交部及当公使館に存案する事迄譲歩したり。右は尚不十分なるを以て、是非本使と総長との署名を付加せん事を主張したるも、先方は強硬に反対し容易に同意せず。就ては前記の方法にて御異存なくば先方の主張通りにて取り運ぶべし。
加藤も基本的に同意したが、署名者の地位に関して注文を付けた。
之を会議録体に認むることにて差支なきも、少くとも曹次長と小幡一等書記官之に記名することと致度し。
要するに、中間を取ったと言える。中国側の主張とはなお若干の開きがあるが、合意可能な範囲であったと思われる。しかし、あと一歩まで達したこの項目は、結局流れることになる。最後の詰めに手間取っている間に、東蒙問題等の重要方面で決定的な行き詰りが生じ、最後通牒に訴えるとなった際、すでに決着していた第六項(福建)を除き第五号はすべて落とすことになったためである。
日本の最後通牒発出が明白となった時点で、第二項応諾の意向を中国側が急遽通告してきた、という事実に鑑みても、もう少し時間を掛ければ、これは合意に至ったものと思われる。第五号中最後まで残されていた四項目のうち、第二項は最も無理押しの感が薄く、最も問題の小さなものと言ってよいだろう。
次の第四項(兵器供給)は、陸軍筋からの強い要望を受けて出されたものだが、国防政策の根幹に触れる性質を持つだけに、中国側も強く抵抗し、また列国も、成行きに大きな関心を寄せていた。この項目は、ごり押しの感が非常に強い。加藤が会議録体に認めおくべしとした中国側の発言は、あくまで文書での約束は出来ないとの前提に立った上で、一応の妥協案として出たものに過ぎず、発言の中身も非常に曖昧である。日置の電報から引いておく。
数回応答論弁を重ねたるも陸は断固として我希望に応ずるの色を示さず。但し結局支那政府内部の内議として決定せる所なりとて陸は、日本兵器は品性良好にて価格に於て廉なるに依り、他日適当の機会に於て支那政府自身の発意に基き陸軍武官を日本国に派遣し其軍事当局と直接兵器購入若は合弁兵器廠設立の事を協議することを考慮すべきも、今日直ちに此事を予め日本国の要求により約束することは支那の体面上又主権関係上不可能なる旨を洩せり。尚陸が政府を代表し責任を以て言明する次第なりと云へるに不拘、本使が然らば本件は他日適当の時機に両国軍憲の間に之を商議すべき旨の取極を結び置き差支なきやと切込みたるに対し、陸は忽ち又々言を左右にして曖昧の態度を示せるを見れば、多少右様の内議は支那政府部内にありたらんと思はるるも、真実に充分の誠意を以てせる言とも認むるを得ず。結局本問題は尋常一様の交渉にては我主張を貫徹し得べき見込なきものと認めたり。
中国側の当局者が、交渉終結後の議会報告において、日本側が「陸総長の言明を記録に留める」云々と主張したのは、「反対理由の説明を誤りて言明と為したるものにて素より同意の限りにあらざりし」と述べているが、特にこの第四項及び先に触れた第一項を念頭に置いてのことと思われる。第四項を巡る日本側のやり方は、ごり押しと言うほかなかった。
もっとも、この項目の処理に関して、加藤の指導性がどの程度あったかについては、判断は容易ではない。四月十二日に第五号の譲歩限度を日置に通知した際にも、「尤も左記各項中兵器問題に付ては閣議の決定を要するに付、四月十三日の閣議を経たる上更に確定の所を申進ずべきに依り右に御含置あり度し」と但書が付けられている。閣議の決定を要するとは、この場合、陸軍の了解を要するということと同義であろう。加藤の一存で撤回できる状況にはなかったかも知れない。
その点、逆に、加藤が固執した、という言い方が最もよく当て嵌まるのが、次に見る第五項(南支鉄道)である。上述の三項目に関しては、中国側が会議の席上述べたことを記録に留めようとしたに過ぎない、との説明が、理屈上は成り立つのに対し、第五項だけは、中国側は最後まで何ら言質を与えていない。これは、中国南部における幾つかの鉄道の敷設権を求めたものであるが、この地域に日本の勢力を拡大するための核として重視されており、加藤自身、第五号の内でも特別に力を入れていた。が、既述の如く、既得権の侵害として、イギリスから抗議が入ることになる。
中国側も、主義として今後は外国に鉄道敷設権を許与しない方針であること、英国との既存契約に抵触すると見做し得ること等々の理由から、拒絶する姿勢を堅持した。ところが加藤は、先に掲げた線までは譲ったものの、撤回する気はなく、あくまで文書の形で言質を取ることに固執したわけである。
加藤の固執には、以下のような事情があったと思われる。何か全く新規の要求ならともかく、南支鉄道問題は以前から交渉中の案件であり、今回突然商議に応じられないとした中国側の態度は納得できない。今後に及ぼす悪影響を考えると、一旦持ち出した以上、何らか形を整えねば矛を収めることは出来ない。ましてや、この案件については競争相手である英国の異議を認めて撤回、という形は認め難い―。
第五項のみを、独立した交渉案件として見るなら、この加藤の姿勢も一応筋は通っている。しかし、最後通牒を発し開戦もあり得る状況下、列国とりわけ同盟国イギリスの好意的姿勢が重要であることに鑑みれば、大局を見失った態度と言わざるを得ないだろう。無論、そもそも南支鉄道の敷設権にどれほどの意義があるのか、権利を得たところで活用出来るのか等、根本的な問題もあるが、それは措き、仮に利益であるとの前提に立っても、やはり、ここでの加藤の態度は問題であろう。あるいは、英国通の自分なら日英関係を毀損せずうまく収められるとの思いがあったのかも知れないが、過信ではないか。
井上駐英大使とのやりとりなどに、そうした加藤の硬直ぶりがはっきり見て取れる。「日本は英国の既得鉄道権益の譲渡を中国に迫っている」と英紙タイムズが報じたのを受け、四月十七日、井上は次のような所見を加藤宛に打電した。
(前略)タイムス北京電報中鉄道問題に関する部分は果して事実其通りなるや。萬一然りとせば、我方に於て如何にも英国側の既得権横奪を企て居るやの感触を与へ、当国一般の感触に対し険悪の影響を及ぼすを免れざるのみならず、(中略)当国政府の思惑の程も懸念せらる。(中略)我に於て若し新聞所報の如き遣口に出づるに於ては、支那側に於て拒絶するに屈強の辞柄を有すべきのみならず、萬一此問題のため英支両国の立場をidentifyせしむるが如き成行に立到らんには恰も支那の意中に執らるるが如き次第に付(中略)目下の場合時局を日支間に局限する必要に鑑み、本件鉄道問題の如き同盟国との機微の案件に関しては夙に相当御考慮の次第も有之義とは存ずるも、当方面の事態の推移にも鑑み敢て愚見の次第御参考の一端迄に申し上ぐ。
井上は更に、「最後譲歩案」(第二修正案)決定後にも、「一旦本件を今回の交渉より引離すこととせらるること事宜に適せざるや」と再び意見具申を行っているが、加藤は次のように、頑なな姿勢を崩そうとしなかった。
御承知の通り本件に関する交渉の成行に鑑み、支那側と何等かの了解をつけ置かずして漫然本問題を今回の交渉より分離し難きは申す迄もなき義なり。
続いて、これら未決の案件を最終的に落とすに至った経緯を跡づけてみたい。
まず四月二十三日、「最後譲歩案」の通知を受けた交渉担当者の日置が、その内容に異議を唱える。
対支交渉案件中第五号に関しては、累次の電報を以て縷報の通り、支那政府に於て将来適当の時機に至らば兎も角今回は如何なる形式を以てするも絶対的に我希望に応ぜざる決心なるべしと確信せらる。是れ本使が最近数回の会議に於て最明確に感知したる所にして、恐らく此推測は誤なかるべしと思料す。(中略)他の各号は兎も角とするも第五号は前述の如き次第なるを以て、支那側に於て依然其主張を枉げざるに於ては勢再び交渉行悩となるべく、此場合に於て我政府は断固たる決心を以て之を処理せらるる御方針なるや、今回は御電訓の趣旨に依り我最後譲歩案として提議する以上、字句形式の修正変更は兎に角、主義に於ては断じて之を変更せざる決心にて交渉に取懸りたきに付、其辺に対する政府御意見為念本使参考として今一応至急承知し置きたし。
この日置の警告ないし異議に接しても、加藤は方針を変えようとしなかった。
第五号各条項は、主義に於て彼我の意見己に一致したる福建省に関し取極を為すの外は、大体に於て会議の席上及其他の場合に支那側の言明したる処を記録に止めんとするに過ぎずして、支那側に於て口頭にて言ひたる処を記録に止むること能はずと云ふべき理由は全く了解し能はざる次第なり。
しかし、既に見た通り、中国側の「言明」は、文書化は出来ないとの前提のもとでの妥協案に過ぎない。その際中国側は、様々な政治的事情を文書化出来ない理由に挙げ、誤解の余地のない説明を行っている。それを、「全く了解し能わざる次第なり」と一蹴する加藤の姿勢に、政治感覚を見て取ることは難しい。
ともあれ、日置の異議は加藤を動かすに至らなかったが、続いてロンドンから井上大使が異論を唱える。
我提案中希望事項に属する諸件の如きは、帝国政府に於て曩に英米等の与国に対し此等は希望事項として自ら要求事項とは性質を異にし我に於て之が実行を強制するの意志なき旨宣言せられたる行懸りあり。且又我に対する世間一般の疑惑と反感も主として此等問題に起因する次第に付、旁以て是等の問題を以て支那に対するruptureの原因となすが如きは与国に対する外交上策の得たるものにあらざるべく(中略)我方は宜敷く是等事項は追ての時機に於て重ねて商議を開始すべしとの保障の下に此場合自ら進んで一旦今回の交渉より引離すべき旨声明し重ねて彼が反省を促し以て要求眼目の貫徹を計るの措置に出でらるる方可然にあらざる乎。右に対しては支那の態度如何は素より予見の限りにあらざるも、当方面の関する限り我態度の公明を明証し一般感情を緩和するの効多大なるべく、時局の重大に鑑み当方面の形勢に照らし慎重熟慮の結果甚だ差出ケ間敷も愚見の次第を具し此際御参考の一端迄申進ず(五月二日着電報)
理に適った意見と言えよう。しかし、加藤はこの進言も入れようとはしなかった。「最後譲歩案」に対する中国側の回答は、第五号以外の重要項目に関しても、非常に「誠意を欠きたる」ものであった、とした上、加藤は次のように答えている。
従て此上第五号に付我方に於て譲歩を為すが如きことあるに於ては、支那側は益々付け上り我が足元を見透かすこととなる義なるを以て、到底譲歩を為すこと能わざる次第なり
この他、当時袁世凱の顧問であった早大教授有賀長雄が第五号を最後通牒から落とすよう進言せんとしたが、加藤はこれを寄せ付けず、却って、有賀が元老間を説いて回るのを見て、「袁探」(袁世凱のスパイ)呼ばわりする始末であった。有賀は後に新聞記者の問いに答えて、「加藤外相は頭脳頑なにして到底余等の意見に耳を傾けず」と語っているが、実際この段階では、加藤に局面を冷静に判断する能力が残っていたのか疑わしい。恐らくもう、誰の説得も受け入れなかったであろう。加藤が元老・閣僚会議に諮った最後通牒原案には、第五号の未決案件がそっくり残されていた。
第五号の取り下げが修正として加えられたのは、イギリス政府が日英同盟の廃棄を仄めかし、山県有朋ら元老が加藤を強く詰責するという事態に至って後のことであった。
こうして最終的に第五号(中でも第五項)が落とされた結果、イギリス政府は一転して、日本の最終提案を受諾するよう中国側に勧告する立場に回った。ロシアも、ひとまず最後通牒を受け入れるよう、中国政府に圧力を掛けたようである。こうした列国の働き掛けもあって、交渉は何とか妥結に至った。
加藤の主張の通り、第五号(中でも第五項)が残されたままだったなら、イギリス政府も動きようがなかったろう。また、中国側が、他の条項は呑むが第五号関係だけはあくまで拒否するという態度に出ていたら、日本は、中国が「希望」を受け入れなかったという理由で交渉を打ち切り、軍を動かすという事態に追い込まれたかも知れない。実に、大局を忘れた稚拙な外交であったと言わざるを得ない。
(つづく)

