武器輸出三原則緩和による日印戦略関係の強化を(5) |
下記は、拙稿「武器輸出三原則緩和による日印戦略関係の強化を」の続き(第2章後半)である。前回分まではここをクリックしてもらえばある。
パキスタンのシャリフ(左)、インドのヴァジパイ両首相(Sharif and Vajpayee)
第2章「核兵器不拡散条約(NPT)と日印関係」のつづき
……
インドのヴァジパイ首相は、1998年5月の二度目の核実験直後、クリントン米大統領はじめ各国指導者に宛てた書簡で、次のように述べている。
われわれは、公然たる核兵器国と境界を接している。その国は1962年にインドへの武力侵略を行った。その国との関係は、この10年間に改善したとはいえ、主として未解決の国境問題により不信感は持続している。さらに不信を高めるのは、その国が、別のわが隣国が秘密裏に核兵器国となるのを実質的に助けてきたという事実である。[i]
「その国」とはもちろん中国を指す。中国という「公然たる核兵器国」が隣に控え、「別のわが隣国(北朝鮮)」が「核兵器国となるのを実質的に助けてきた」という点で、日本の状況もほとんど変わりない。武力侵略を直接受けたインドのほうが、脅威認識はその分強いだろうが。
日本とインドのもう一つ大きな違いは、インドが、ネルー以来の「非同盟主義」により、核保有国の「核の傘」に頼る選択肢を排除して事実である。
国基研訪印団との意見交換の場で、ある元インド政府高官が、「インドに非同盟主義があり、日本に憲法9条がある」と自嘲気味に、もしくは同病相憐れむ風に語ったことがある。
イデオロギー対立の冷戦下において「非同盟」が理念的に成り立つのか、またどの程度インドが「中立」だったと言えるか等の問題には、ここでは踏み込まない。長い植民地状態から脱したインドでは、自主平等を希求する政治的要請が非常に強かったという説明はそれなりに納得できる。いずれにせよインドは、他国の核の傘に頼る道を選ばなかった。[ii]
なお日本においても、NPT加入は滞りなく進んだわけではない。与党自民党を中心に、核の選択を残すべきとの反対論は根強く、政府がNPTに署名(1970年2月)してから、国会による批准(1976年6月)まで6年以上掛かっている。
署名に際し日本政府は、「日本国政府は、条約第10条に、『各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認めるときは、その主権の行使として、この条約から脱退する権利を有する』と規定されていることに留意する」との声明を発している。反対派ないし慎重派に配慮したものである。
1964年10月の中国の核実験から約2か月、佐藤栄作首相(当時)は、エドウィン・ライシャワー駐日米国大使に対し、「もし相手が核を持っているなら、自分も持つのは常識だ。日本国民には核に対する拒否感が強く、現段階ではこれを受け入れる素地が出来ているとは言えないが、特に若い世代には教育する余地が残されている」と述べている。[iii]
2年後の1966年12月、中国が文化大革命で揺れる中、来日したディーン・ラスク米国務長官に対し、佐藤は次のように語っている。
中共につき最も心配なのは、……中共が核武装したことから、気ちがいに刃物という事態になる心配である。[iv]
翌1967年1月、佐藤はワシントンでの日米首脳会談に臨んだが、その席でジョンソン大統領は、日本に拡大抑止を提供する旨、口頭で約束した。それを受け、同年11月、ラスク国務長官が訪日しての会談で、佐藤は、日本独自に核を持つつもりはなく、日米安保条約の下、アメリカの核の傘により日本の安全を確保したいと述べるに至っている。
もっとも、核保有の有無で国の「等級」が決まり、日本は「二等国」に分類されるとの懸念に発するNPT加入慎重論ないし反対論は、なお与党内を中心に存在した。[v]
1970年2月、日本政府はNPTに署名し、それから約6年後の1976年6月に国会でも承認された。NPTに参加しなければ、平和利用の権利が確保できず重大な支障が生ずるという原子力産業界から政界に向けた働きかけもあったが、アメリカの「核の傘」提供がなければ(その信頼性如何は別として)、署名・批准への道は遙かに険しいものとなったであろう。
なお、「国是ともいうべき非核三原則」という表現が、内閣法制局長官の国会答弁等、政府側においても用いられてきた。基本的経緯に照らしこの表現は不適切である。
佐藤首相は、1967年12月の衆院予算委員会で非核三原則を打ち出した後、三原則が一人歩きする事態を怖れ、翌年1月の衆院本会議で改めて「核政策の4本柱」を提示した。すなわち、①非核三原則②核廃絶・核軍縮③米国の核抑止力に依存④核エネルギーの平和利用の4点で、核抑止力もはっきり言及されている。
近年の例では、左翼市民運動出身の菅直人首相も、2010年8月6日の原爆記念日に広島で行った会見で「国際社会では大規模な軍事力が存在し、核兵器をはじめとする大量破壊兵器の拡散もある。不確実な要素が存在する中では、核抑止力は引き続き必要と考えている」と述べている。
非核三原則とともにアメリカの拡大抑止力に頼る政策を取りながら、前者のみを「国是」と称して説諭するごとき態度にインドなどが苛立つのも無理はない。「唯一の被爆国」を強調する論法にも、相手に適切な切り返しが用意されており効果はない。
例えば1998年の核実験直後、朝日新聞のインタビューに応えたパキスタンのシャリフ首相は、「日本がもし核兵器を持ち、核を使う能力があったら、広島、長崎に原爆は落とされなかっただろう」と述べている。[vi]
そのパキスタンは別として、NPTにおけるインドの位置づけは、すでにインドを「例外」とすることで国際的に決着をみている。
外務省の解説書『日本の軍縮・不拡散外交』は、最新版でもなお、「日本は、インド、パキスタンに対し非核兵器国としてのNPTへの加入を引き続き働きかけている」と記しているが、働きかけが事実なら無用の摩擦を招くだけだろう。
国際的な決着の中身および経緯は、同書自らが簡明に解説している。引いておこう。[vii]
2005年7月、シン首相が訪米してブッシュ大統領と首脳会談を行い、米側は、インドがNPTに非加入のままでも、民生用の原子力協力に向けた努力を行う旨合意した。
さらに、2006年3月にブッシュ米国大統領が訪印し、米国・インド両国首脳は、インドが……14基の原子炉を段階的にIAEA保障措置の下に置く等の措置を取る一方、米国はインドへの完全な民生用の原子力協力を行うために、関連する米国内法の改正及び原子力供給国グループ(NSG)[viii]ガイドラインの調整を追求していくとする合意に達した(いわゆる「民生用原子力協力に関する米印合意」)。
その後、……2008年9月のNSG臨時総会で「インドとの民生用原子力協力に関する声明」がコンセンサス採択され、インドの例外化が決定された。
インドの原子炉中、IAEAが「保障措置」(監視・査察)下に置くのは、民生用のみで軍事用は除外される。民生用、軍事用の区別はインドの自己申告に拠る。すなわち、NPT上の核兵器国5カ国と同様、インドも軍事用の原子炉を持つことが認められたわけである。「カギはインドをIAEA体制の枠内に入れることであり、NPT加入・非加入にこだわってはならない」とライス米国務長官(当時)は述べている。[ix]
この決定に際して、日本政府も賛成票を投じた。中国は当初、「国際的な核不拡散体制にとり大きな打撃」と異論を述べ、パキスタンもインド同様に扱うべき等の主張を行ったが、結局反対はせず棄権した。それゆえ決定は、反対者なしの「コンセンサス採択」となった。[x]
同様の決定はIAEAの理事会でもなされた。エルバラダイ事務局長(当時)は、「保障措置の世界的適用に向けた具体的で実際的な措置」と米印原子力合意を歓迎する声明を出している。
なお、ロシアはインドに対し、上記「例外化」が決まる以前から原子炉を供給している。中国もパキスタンに対し、国際的な「例外化」決定がないにも拘わらず、原子炉を供給してきた。
アメリカの判断で「良い国」と「悪い国」を分け、「良い国」―ブッシュの表現では「責任ある(responsible)国」―についてはNPT上の例外措置を認めるというのでは、原則が崩壊するといった批判も広範囲に出された。しかし、ブッシュ政権が行動の次元で突出していたわけではなく、民主的手続きを顧慮しない中国やロシアは、それぞれ独自の判断で、すでにインドやパキスタンを「例外」扱いしていた。またNPT自体が、5カ国を例外扱いすることで出発時点において非核原則を崩しており、現実に即して「崩れ方」に修正が加えられていくのはむしろ当然と言えよう。[xi]
ともあれ、インドを「あたかも(as if)」核兵器国のように扱い、核不拡散メカニズムに組み込むというのが、「例外化」決定の意味であった。[xii]
インド政府の方も、核兵器国としての認知を求めるつもりはなく、そもそも外国に認知してもらう筋合いではない、と「あたかも」で充分との立場を取った。
インドがこれまでに、自国外に核兵器関連物質を流出させたとの報告はない。「核関連物資の輸出管理に関してインドは、二つのNPT上の核兵器国、ロシアと中国より、よい成績を残していた。ロシアはイランが、中国はパキスタンがそれぞれ危険なテクノロジーを獲得するのを助けていた」というタルボットの概評は、一般に是認されるものだろう。[xiii]
[i] Thomas Reed, Danny Stillman, The Nuclear Express, 2009, p.243.
[ii] 非同盟主義を標榜しつつソ連に接近する傾向もインド外交には見られた。岡本幸治は、当時の南アジアの状況を「ねじれ冷戦」と呼んでいる。岡本『インド世界を読む』(創成社、2006年)176頁。
[viii] 原子力供給国グループは、1974年のインドの核実験に、カナダ製研究用原子炉からのプルトニウムが用いられたことを契機に、核関連物資・技術の輸出管理強化を目指し、1978年に設立された。メンバーは現在46か国。中国も2004年に参加している。
[x] Carl Paddock, India-US Nuclear Deal, 2009, pp.10-11. ライス米国務長官(当時)の回顧録によれば、「核不拡散体制の護持者」を任ずるオーストリア、アイルランド、北欧諸国などが、「インド例外化」にかなり抵抗したという。Condoleezza Rice, No Higher Honor, 2011, p.697.