武器輸出三原則緩和による日印戦略関係の強化を(4) |
下記は、拙稿「武器輸出三原則緩和による日印戦略関係の強化を」の続き(第2章前半)である。前回分まではここをクリックしてもらえばある。
クリントン政権の国務副長官として対印関係を担当したストローブ・タルボットの回顧録『インドに積極関与する』。
2.核兵器不拡散条約(NPT)と日印関係
NPTに対する日本とインドの立場はほぼ一八〇度異なる。そのことの意味を次に考えたい。
まずNPTの内容を簡単に整理しておこう(外務省「核兵器不拡散条約の概要」をもとに、適宜補足した)。
「核兵器の不拡散に関する条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons, NPT)」は、1968年7月1日に署名開放され、70年3月5日に発効した。日本は1970年2月に署名し、1976年6月に批准している。批准に6年以上を要した理由については後で触れる。
締約国は190か国(2012年3月現在)。インド、パキスタン、イスラエルの3か国が非加入で、一旦加入しながら脱退を表明した存在に北朝鮮がある。
外務省「NPTの概要」は、核不拡散、核軍縮、原子力の平和利用を「NPTの3本柱」と表現する。
(1)核不拡散
米、露、英、仏、中の5か国を「核兵器国」と定め、それ以外に対する核兵器の拡散を防止。この条約の適用上、「核兵器国」とは、1967年1月1日以前に核爆発装置を製造しかつ爆発させた国をいう。
従って、1964年に核実験を成功した中国は「核兵器国」の資格で加入が認められたが、遅れて1974年に実施したインドは「非核兵器国」としての加入しか認められない。
NPT成立当時は、米ソイデオロギー対立の時代であり、核兵器を持ちうる国と持ち得ない国の線引きを体制の性格に求めるなら合意自体が不可能だった。そのため、「現に持つもの」と「持たないもの」という最も没理念的な基準が採用される。言うまでもなく、交渉を主導した「現に持つ」米英ソ三国にとって損な話ではなかった。[i]
インドは当初から、NPT批判の急先鋒であり続けた。あくまで核兵器「全廃」条約でなければならないと国連の場などで主張する一方、主張が容れられないなら、自ら対抗核武装に乗り出さざるを得ないとの意思を示してきた。
ちなみに中国も、NPTは米ソが核優位の永続を狙った試みであり、核大国は、自ら核を廃棄するまで他者の核武装を阻止する権利はないと批判し、20年以上に亘り参加を拒否していた。ただし中国には核兵器国としてのNPT参加という道が開かれており、結局、1992年3月に加入した。
(2)核軍縮
各締約国は「核軍拡競争の中止および核軍縮に関連した交渉を誠実に行う」(第6条)。核保有国が実際「誠実に」軍縮を進めるなら、非核保有国との不平等性はその分薄まるだろう。進まなければ、不平等は固定化ないし一層拡大する。
(3)原子力の平和利用
原子力の平和利用は締約国の「奪い得ない権利」とされ(第4条)、非核兵器国は、国際原子力機関(IAEA)の保障措置(軍事転用を防ぐための監視・査察)を受け入れた上で核関連施設を動かせるとしている。
問題は、北朝鮮やサダム・フセイン時代のイラクのように、平和利用名目で国際支援を得つつ、秘かに核兵器開発に走る「核詐欺国」(nuclear cheats)の存在である。
これに対処するには、まず有志諸国が、さまざまな輸出管理枠組を通じてどれだけ有効に疑惑国への規制を掛けられるかが鍵になる。もっとも、NPT不参加を理由に、インドなどをも「核詐欺国」と同等に扱う愚は避けねばならない。
以上を踏まえて、次に、インドがNPTに参加しない理由を、特に1962年の中印紛争以降の中国との関係に焦点を当てて整理してみよう。
1962年10月20日、世界の耳目がキューバ危機に集まる中、中国軍が突如インドに大規模な侵攻を開始した。「毛沢東は明確な目的を持ち、攻撃を念入りに計画した」とブラーマ・チェラニーは書いている。
毛は完璧なタイミングを選んでインドを襲撃した。ソ連のキューバに対する中距離弾道ミサイル秘密配備をめぐり、米ソが核戦争の瀬戸際に歩む重大な国際的危機のさなか、攻撃は二波にわたって実施された。……侵攻開始から1か月あまり後、中国は一方的に停戦を宣言する。示唆深いことに、それはアメリカがキューバ海上封鎖を公式に終了した時期と合致していた。……3270人のインド兵を死亡させ、インド国家を汚辱にまみれさせた32日間の戦争は、共産中国とは異なる民主的モデルを提示し、地政学的ライバルでもあるインドを粉砕しようとの毛沢東の試みであった。[ii]
この通常戦争で大敗を喫したインドにとって、2年後の中国の原爆実験成功(1964年10月16日)は衝撃であった。さらに3年後の1967年6月には、中国は水爆実験にも成功している。
これらに加え、1960年代半ばからの約10年、中国が極左的な破壊運動(文化大革命)の渦中にあった事実にも注意が必要である。インドはその間、いわば核を持ったタリバン政権と対峙するごとき状態にあった。
こうした中、インドが、NPT加入―核抑止力放棄という道を選ばなかったことに何ら不思議はない。1974年、インドは最初の核実験を実施する。「核のオプション」を示して中国を牽制する戦略的動機に加え、アメリカに対する反発を心理的動機として数える人も少なくない。
1971年の第3次印パ戦争(東パキスタンの、バングラデシュとしての独立につながる)に際し、勢いに乗るインド軍を牽制するため、アメリカは空母エンタープライズ(核兵器搭載といわれた)をベンガル湾に進入させた。この行為が、「核保有国の介入的傾向」の好例として、インドの核武装論者を少なからず刺激したとされる。[iii]
なお、ほぼ同時期の第4次中東戦争(ヨム・キプル戦争。1973年)において、アラブ側の先制攻撃を受けたイスラエルが一時苦境に陥った事態を受け、米ニクソン政権は、イスラエルが核実験を行わない限り、核兵器開発自体は黙認するとの意向を伝えたとされる。
クリントン政権の国務副長官として対インド交渉を担当したストローブ・タルボットは、NPTは、インドの政治家や軍事専門家にとり、アメリカの核政策における3つのDを体現するものだったと記している。3つのDとは、「支配、差別、二重基準(dominance, discrimination and double standards)」を指す。アメリカはインドの南アジア政策をエンタープライズで「支配」しようとし、中国は核兵器国、インドは非核兵器国という「差別」を行い、イスラエルとインドがともにNPT非加入国でありながら「二重基準」で臨んだということになろう。[iv]タルボットは次のようにも述べている。
世界の諸国が進んで、中国を核兵器国としてNPTに参加させたことはとりわけインドを怒らせた。なぜ、と彼らは問うた。世界最大の専制国家に核爆弾の保有が許される一方、世界最大の民主国家になぜそれが許されないのか。[v]
(つづく)
[iii] Karsten Frey, India’s Nuclear Bomb and National Security, 2006, p.87, p.96. Bharat Karnad, India’s Nuclear Policy, 2008, p.89.
[v] Talbott, op. cit, p.13. 近年勢いを増している中国の海洋進出の一つの狙いが、アメリカの第一撃に生き残りうる核ミサイルの配備にあることは間違いない。具体的には、開発中の潜水艦発射弾道ミサイル「巨浪(JL)2」(射程7200キロ以上)を「晋級」原潜に搭載し南シナ海に遊弋させれば、在日米軍基地、グアムはもちろんハワイ周辺まで射程に収め、台湾を併合してその東海岸を海軍基地化するなど太平洋中央部まで常時進出できる体制を作れば、米本土も射程に入る。その時点で、アメリカの同盟国に対する「核の傘」はほぼ完全に無力化するだろう。中国の脅威に対して、日本もインド同様、独自の抑止力整備を考えねばならぬ日が目前に迫っている。