日本が約束を違えても、北朝鮮は必要と見れば接近してくる―2008年の経験 |
救う会会長の西岡力氏が本日付ブログに、「北朝鮮は自分に必要な時は動く」という小見出しのもと、2008年夏の経験に言及している。
昨年12月27日に行われた東京連続集会の講演録である。大変重要なポイントなので、若干文章を整理した上で、下に摘記しておく。
全文は救う会HPの下記サイトにある。
http://www.sukuukai.jp/mailnews/item_3311.html
なお、当時のやり取りについては下記エントリも参照。外務省の斎木氏は大変優秀な人だが、なぜかこの時は、別人の如く精彩を欠いたように思う。
■【報告】呆れ果てた福田“朝貢”外交の実態
http://island3.exblog.jp/22017250/
〈以下、西岡講演より摘記〉
4年前、1度、拉致を議題にして交渉しようと北朝鮮から提案してきました。それが福田政権の時です。北朝鮮から言ってきたんです。2008年6月です。
合意文があるわけではないんですが、「生きている被害者を返すための調査やり直しをします」とまで北朝鮮が言った、といいます。
そして拉致を議題にした実務協議が2回開かれました。6月と8月です。その時彼らが求めてきたのは、制裁の一部解除でした。
制裁が効いている証拠です。彼らが求めてきたのは船舶の再入港です。万景峰号を初めとする船を日本の港に入れてほしい、と。
それから、朝鮮総連の最高幹部6人は、北朝鮮の国会議員を兼ねているため、北の政策に責任があると見なし、再入国許可を止めています。北朝鮮に行くことはできても、日本に帰ることができない。一度日本から出てしまうと永住資格がなくなるわけです。
その総連幹部に対する再入国許可をもう一度くれと言ってきました。
もう一つは飛行機のチャーター便です。現在止めている制裁を解除してくれ、と。
すなわち、船と飛行機と人に対する制裁、この3つを解除してくれることを条件に、調査のやり直しをします、と。
当時中山恭子さんが福田政権の拉致問題担当補佐官でした。外務省のアジア大洋州局長は、斎木昭隆さんでした(現在、外務省の事務方ナンバー2に当たる外務審議官)。そして薮中三十二さんが次官だった。その薮中さんと中山さんの間で激しいやりとり、喧嘩に見えるようなやり取りがありました。
中山さんは、「行動対行動」の原則を守らないとだめだ、北朝鮮の「調査やり直し」は口約束で、一方、船を入れたり、人の往来を許したり、飛行機を飛ばしたりは行動だ、「行動対口約束」ではだめだと言いました。
外務省は、全制裁を解除するのではなく、貿易等への制裁は残っているので一部解除で調査やり直しをさせたい、という姿勢でした。
まず6月、実務協議を終え帰国した斎木さんは、外務大臣(高村正彦)にも報告しないまま、福田総理大臣のところに行きました。中山さんは首相官邸におり、拉致担当の補佐官だったのにそこに呼ばれませんでした。
斎木さんが、「船と人と飛行機の解除で調査やり直しをする、と話がまとまりました。総理これでいいですか」と決裁をもらおうとしました。福田総理は、その場を見て、「中山君がいないじゃないか呼びなさい」と言ったんです。後から中山補佐官が入った。
外務省のシナリオは、中山さんを外して制裁の一部解除を決めようということでしたが、中山さんはそこで反論したようです。
官邸で福田さんに報告後、斎木局長は家族会、救う会が待つ場に来て説明会をしてくれました。そこでも中山さんが斎木さんに対し、「外務省の説明のしかたはおかしいですね」と抗議しています。
普通、民間人の前で、政府の人間同士が違う意見を言うことはない。一体何が起きているのか私たちは最初よく分からなかったんです。
少なくとも万景峰号を入れるのは絶対だめだと、政権の中で中山さんは頑張った。自民党の当時の幹事長の伊吹文明さん(現衆議院議長)などもそれを応援し、福田政権は、交換条件として船はだめ、チャーター便と総連幹部の再入国許可だけを残すと決めました。
すると朝鮮総連は、「日本は約束を破った、もう交渉は終わりだ」とマスコミを集めて言いました。それでも福田首相は頑張り、8月の初めに内閣改造をして、中山さんを拉致担当大臣にしました(在任期間 2008年8月2日~2008年9月24日。麻生内閣発足とともに河村健夫が後任に。中山の前任は町村信孝)。
補佐官には権限がないが、大臣にはある。閣議に出るわけです。制裁の大部分は閣議決定されます。解除する時も閣議決定です。そこで担当大臣が反対すればなかなか解除できないわけです。
福田首相はそういう権限を持つ大臣ポストに制裁の安易な解除に反対していた中山さんを任命しました。外務省的やり方はしないというメッセージだった。福田総理も、小泉第一次訪朝があった2002年の官房長官時代に、外務省が言うまま、調べてもいないのに「死亡」通告をし、冷たいと強く批判されたのを少し反省したのかもしれない。
朝鮮総連がもう交渉はつぶれたと言い、その上、中山さんを担当大臣にしたのに、突然また北朝鮮が、「もう1回やりましょう」と言ってきて、8月に交渉をした。
そこで日本側の要求を北朝鮮が受け入れ、「船の制裁解除はなくてもいい。飛行機と人だけでいい」と譲歩してきたんです。「その代わりに調査をやりなおします」と。それに対し日本側は「口約束だけじゃだめだ」と言い、「じゃあ調査委員会を立ち上げます」となった。
調査委員会の正式立ち上げと、飛行機と人の制裁を解除することで合意となり、「北朝鮮は何か焦っているな」と感じた。
つまり、彼らは自らが必要な時は動くんです。こちらが強硬なことを言ったから駄目、とはならなかったというのが、2008年の以上の経験です。
ところがその後、金正日が病気で倒れます。そして9月に福田さんが辞意を表明すると、「次の政権の政策をみたい」と、北朝鮮は調査やり直し約束を反故にしてきた。それが4年前のことです。(以上)

