「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(14) |
以下は、旧稿「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(1987年)第3章のつづきである(過去掲載分は、この画面左のフォルダ「論文集」中にあり)。
第五節 第五号不通告の理由
なぜ加藤外相は、列国に要求内容を内告する際、希望条項をはずしたのか。
まず加藤自身が、各国の駐日大使や日本の出先大使たちに行った説明をまとめておこう。おおむね次の五点になる。
①要求ではなく単なる希望である。「要求各条件とは性質を異にし、自ら軽重の別ある次第なり」。
②日中の従来からの懸案事項である。
③少くとも部分的にはすでに行われている事柄であり、新規の要求ではない。
④列国の権利利益と何ら抵触しない。
⑤そもそも、交渉内容を他国に通告する義務はない。
このうち②以下は、第四号までの要求条項についても当てはまるはずのものだ。結局、第五号のみ伏せた理由として残るのは①だろう。
が、いくつか別の動機もあったと思われる。
まず、第五号のうち第五項(南支鉄道)については、当時、権益獲得をめぐりイギリスと競合関係にあった。競争相手にわざわざ通知して、介入を招くのは得策でないとの考慮が当然働いただろう。
井上駐英大使宛電報中に見られる、「ひとり第五のみは、或は英国人に於て、多少其勢域を侵すものとして不快を感ずるものもあるべしと雖も」といった一節に鑑みても、通告すればイギリスから横槍が入って面倒になる、との認識が加藤にあったことは間違いない。
次に、門戸開放・機会均等・領土保全といった原則に照らし問題になりかねない項目が含まれているため通知を避けたという面もやはりあったと思われる。同じ性質をもつ第三号第二条が伏せられている事実が、傍証となろう。
第三に、第五号のほとんどの項目については、最終的にはかなりの緩和を予想しており、したがって、原案を示して色々腹を探られるより、結果が出てから事後通告する方が無難という判断もあったように見える。
加藤が第五号原案を始めて出先大使に通知したのは二月十七日だが、これは「最終譲歩案」(第一修正案)を閣議決定した翌日に当たる。その際、原案と「最終譲歩案」両方を並置する形で通知している。またほぼ同時に、北京の日置公使に向け、「最終譲歩案」をただちに中国側に開示してもよいとの訓令が発せられている。
こうした一連の動きを見ると、仮に日置が、譲歩案を即座に開示していたなら、加藤は、原案ではなく「最終譲歩案」の方を列国に内告するよう取り計らったものと思われる。(結局、日置はその方法を採らなかった。詳細は後述)
以上まとめれば、加藤自身の説明に加えて、列国の介入を招きかねない項目まで内告するのは得策でないとの認識、および相当譲歩する用意のある事柄まで慌てて原案を内告する必要はないとの思いが重なり、第五号については一括して伏せることにしたと見ておいてよいのではないか。
そこで次に問題となるのは、中国側から内容が漏れ、大いに物議を醸す事態を加藤は予想できなかったのかという点である。諸外国からの要求に対し、それまでも中国側は、他の列強の介入に期待ししばしば暴露戦術に訴えてきた。
実際加藤は、交渉開始に当たり、絶対に秘密を保つよう中国側に再三念を押している。裏を返せば、中国側からの情報漏れの可能性を意識していたということである。にもかかわらず、希望条項を対外的のみならず自国の出先大使にも知らせなかったのは、外交感覚の欠如としか言いようがない。
おそらく、加藤の意識においては、次のような合理化がなされていたものと思われる。
中国側に提示する際、第五号は「希望」であり、相当譲歩の余地があることを暗示してある。同時に、もし第五号の存在が外部に漏れた場合、国内世論の手前、日本側も態度を硬化せざるを得ず、中国側にとって不利な事態となるとの威しもかけてある。したがって中国側も、今回は暴露戦術に出ないだろうとの楽観的思い込みが、加藤にあったのではないか。
結果的に判断の甘さを突かれたわけだが、ただ中国側にも、加藤に同調する向きが全くなかったわけではないらしい。駐北京米国公使ラインシュがブライアン国務長官宛に出した電報に次の一節がある。
日本側要求のうち最も苛酷なものは撤回されるであろうとの期待、および日本側がそのような撤回をしやすくなるようにとの願望から、中国政府は、秘密厳守という日本の指示に従おうとしている。
が、こうした「穏健派」のみで政府が構成されるわけではない。すべてを暴露し、国際世論を背景に全面対決といった激しい路線を好む人々も当然存在しよう。仮に、政府の方針として秘密厳守を決めても、不満分子や口の軽い人物から情報が漏れる事態は、充分予想される。
また、日本側も、列国に内告していたわけだから、他国政府への通知に関する限り、中国側を一方的は非難できない。
結局、この点での加藤の読みの甘さが、日本外交にとって大きな躓きの石となった。日本の態度を硬化させるような愚かな行為に中国側は出ないだろう、という楽観的結論を出した時点で、加藤は判断を停止してしまったようだ。後はもう、次のような言葉が続くのみである。
斯く我要求の項目及交渉の内容世上に流布さるる以上は、円満に交渉の話合を付け得ること自然不可能なる羽目に陥り、支那側に於ても譲歩し難く、我方とても支那側の立場を考量するが如き事も到底為し得ざるに立至るべく、其結果或は交渉不調に陥るが如き事迄を保し難きに至らん。其場合には、交渉不調の責は全然支那側に在るものと覚悟せざるべからず。(二月十九日付日置宛電報)
尚、支那側は、国内人心の動揺を云々して第五号等の商議を拒む有力なる理由と為し居れる如きも、国内人心の動揺なるものありとせば、右は其実支那政府が不謹慎にも日支交渉の内容を内外に漏洩せる結果にして、云はば自繩自縛とも云ふべき筋合なる旨序の節申添へ置かれ度し。(四月十二日付日置宛電報)
「自繩自縛」という言葉は、直ちに加藤自身の頭上にも撥ね返ってくるものであった。第五号の存在が明らかになって以降、日本側の動きは何かにつけ疑惑のレンズで見られることとなる。以下、交渉の具体的過程を追っていきたい。
(つづく)

