「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(12) |
以下は、旧稿「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(1987年)第3章のつづきである(過去掲載分は、この画面左のフォルダ「論文集」中にあり)。
第三章 「二十一カ条要求」における加藤高明の外交指導
第二節 希望条項の性格
第五号(希望条項)の最大の特徴は、全体としてのまとまりのなさにある。
第四号までは、特定の地域に関する要求をまとめたものだが、第五号にはそうした性格は見られない。種々雑多な項目の寄合所帯に過ぎないといえよう。
したがって、第五号を一体のものとして、当初伏せられた理由や加藤が固執した理由を考えようとすると無理が生じる。例えばいま、「加藤が固執した理由」と書いたが、この言い方自体すでに正確を欠く。固執せず途中で撤回した項目もあるからだ。第五号全体として、固執したとかしなかったとかいう言い方はできない。
従来の解釈に見られる様々な無理は、第五号の雑居的性格を無視し、一塊(ひとかたまり)のものとして扱ってきたことに、多くが起因するように思われる。例えば、最初のまとまった研究書である堀川武夫『極東国際政治史序説-二十一カ条要求の研究-』の次の記述を見てみよう(カギ括弧内は、すべて堀川による伊藤正徳『加藤高明』からの引用)。
しからば、加藤外相は、要求条項のほかに、何故、「希望」と名付けた変則的な条項を提出したのであろうか。その理由は、元老その他日本国内各方面に対する「対内的の譲歩」であったという以外には、考えられない。
すなわち、加藤外相は、これら「各方面からの要求中、斥け得ないもので、余り感服出来ない箇条を一括し」て、これを、他の条項と区別し、とくに、「希望条項」として、提出することとしたのであった。この意味では、加藤外相は、「他に制せられ己れを枉(ま)げて」、この第五号を提出したのであって、したがって、彼自身「あの(第五号の)中には、実は余り感心しないものもあった」として、この希望条項に強い執着を持っていたわけではなく、「或は中途撤回することもあろうと予期して」いた程度のものであった。
この堀川(伊藤)の説だと、なぜ加藤は第五号中の一部に最後まで執着したのかが説明しにくいだろう。
伊藤正徳が、加藤自身の言葉として引くところを見ても、あくまで、「あの中には、実は余り感心しないものもあった」というに留まり、第五号の全部が「感心しないもの」という言い方はではない。加藤の言葉なるものを額面通り受け取るとしても、なお、伊藤や堀川の解釈は行き過ぎと言わざるを得ない。
例えば第五号第四項(兵器問題)などは、堀川らの言う通り、陸軍筋の強い要求に基づく「斥け得ないもので、余り感服出来ない箇条」ということだったろう。陸軍側は「要求」として出すことを主張したが、それは困難と見た加藤が、一ランク下げて「希望」の形で出したと見るのが自然だと思う。
しかし、第五号第五項(南支鉄道)などは、「余り感心しない」どころか、加藤自身が大変重視していたもので、日置宛訓令でも、「当方に於て特に最も重きを措く所にして……」などと述べている。加藤が最後まで執着した項目の一つでもある。
これは、かねてから日中間で交渉中の案件であり、この機会に少しでも話を進めておきたいとの思惑から出したものと思われる。ただ、特殊権益を主張できる根拠はなく、また同盟国イギリスがこの利権をめぐる競争相手であったため、「要求」としては出せなかったというだけであろう。
ここに、第五号の寄せ集め的性格の一端がある。
つまり、国内の一部からの強い要請に押し切られたものの、加藤自身は余り乗り気でない項目と、加藤自ら大変重視していたが、「要求」として出せる根拠は乏しいと判断した項目を寄せ集め、それを「希望」の名のもとに一括したという面である。要求条項とは区別した形で希望条項を設けるという決定は、こうした考慮に基づいてなされたものと思われる。
が、さらに検討すべき側面がある。第五号中には、第一項(日本人顧問傭聘)のように、すでにある程度中国側が実行しており、新たな利権要求とは言えないものも含まれているからだ。これなどは、現に行われている事柄について一層の拡大を促す勧告的性格のもので、その後の交渉の経緯(後述)に鑑みても、文書による取極を特に必要と考えていたとは思えない。
そこで問題は、そうしたゆるやかな勧告を、なぜ取極案である他の諸項目と並べる形で提出したのかである。
ここで、一つ参考になる史料がある。『日本外交文書』大正三年十二月三日「中国に対する要求提案に関し訓令の件」(すなわち、「二十一カ条」原案)の項に、実際に日置宛に出された正式の訓令と並べて「付記」とされている文書で、要求書の草案と覚しきものである。
それを見ると、「対支要求条項」と題して列挙された全部で十七項目中に、第五号第四項(兵器)、第五項(南支鉄道)、第六項(福建投資優先権)は、その原形と見られるものが入っているが、第五号のその他の項目は姿を見せていない。
ところが、対中政策の一般方針を書き記した前文中に、第五号第一項と一字一句違わない文章が含まれている。
恐らく、後に要求条項とは別に希望条項を設けることが決まった段階で、一般方針の部分からその箇所を抜き出し、第五号の第一項としたのであろう。
要するに、一旦「希望条項」を設けることが決まるや、「希望」ということならこんな事柄も入れてよいだろうといった安易な感覚に導かれ、取極案になじまず、またその必要もない性質の事柄が、紛れ込むに至ったわけである。
なお、第三項(警察合同)、第七項(布教権認可)等も、当初の草案には見られないこと、および、前者など内容的にかなり無理があり、しかもその無理を加藤自ら認識していたこと、さらに早めに撤回が決められていること等に鑑み、「希望」という形なら一応出してもよいだろうという意識から、原案作成の最終段階で混入してきた項目と見てよいだろう。
後者については、列国がすでに得ている権利を日本仏教界も得ようとするだけ、平等な扱いを求めるに過ぎないといった仏教関係者の主張を斥けるのは厄介なので、取りあえず出しておいたというあたりが真相ではないか。
以上、もう一度整理しておけばこうなる。まず、事柄の性質および諸情勢に鑑みて「要求」としては出しにくい項目(そこには、加藤自身重視していたものもあれば、そうでないものもある)を寄せ集め、希望条項なるものを設けた。ところが、そのためかえって、各方面からの要望をはねつけにくくなり、さらに雑多な項目がいくつか最終段階で混入することになった。これが、日本側の意図について、様々な誤解や憶測を生むもととなる。
しかも、第四号までの要求条項と並べて、第五号という形で出したため、第五号も同じく「要求」であると一般には受け取られ、第五号中の特に配慮を欠く項目が、あたかも日本の要求全体を象徴するもののように喧伝されるに至ったのである。
(つづく)

