対華21カ条要求――加藤高明の外交指導(2) |
以下は、「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」のつづき、第1章の前半部分である。
第1章 「二十一カ条要求」の歴史的意味-その内容と問題点-
大正三(1914)年七月末、第一次世界大戦が始まった。同年八月二十三日、日本はドイツに対して宣戦を布告、参戦国の一員となる。
時の政府は大隈重信を首班とする第二次大隈内閣、外務大臣は加藤高明であった。この加藤が、この時期、日本外交を実質的に指導する立場にあったと言える。
第一次世界大戦という言葉は、もちろん、第二次世界大戦後、回顧的に作られたもので、それまでは、日本において一般に「欧州大戦」と呼ばれていた。すなわち、ヨーロッパの戦争である。
用語が示す通り、日本の参戦に、国家的存亡に関わる不可避の事情があったわけではない。
宣戦布告後の日本の軍事行動は、当初、中国山東省におけるドイツ租借地(膠州湾)の占領に限定されていたが、日本政府は、その目的は、ドイツから奪取・占領した地域を中国に「還付」することにあると内外に宣明していた。
しかし、そうした利他的動機のみで日本が軍を動かしたわけではもちろんない。
山東還付の代償を求める形で、日本から中国に対して何らかの要求が出されることになろうというのが、国内外における一般的見方であった。
こうした状況下、翌大正四年一月十八日、中国政府に対する日本の要求書が、日置益・駐北京公使を通じ、袁世凱・中華民国大総統に手渡される。
この時点でなぜ交渉を求めるに至ったのか、日本側の説明は以下の通りである。
――日独戦争の結果、日本は山東省のドイツ利権を接収した。その最終処理は、ドイツとの講和条約を待たねばならない。中国の承認も必要となる。かつて日露戦争の際には、まずロシアと講和条約を結び、次いで中国との交渉という順であったが、今回は、対独講和条約締結がいつになるか不分明のため、まず対中交渉を先に済ませたい。なお、日中関係の基盤を確固なものとするため、この際、両国間の諸懸案を一挙に解決しておくのが望ましい。従って、山東処理の問題に留まらず、いくつかの案件も併せて提起する――。
これが、いわゆる対華二十一カ条要求であった。以後、四カ月近い折衝を経て、結局、日本側の最後通牒発出(五月七日)、中国側による受諾(五月九日)、という形で交渉は一応の決着を見た。
無論、外交交渉の次元では「決着した」ものの、中国ではこの日が「国恥記念日」とされるなど、日本の横暴の象徴としての「二十一カ条」というイメージが定着していくこととなる。
象徴になったということは、イメージの単純化が進んだということでもある。世上に流布された「二十一カ条」像は、一面、日本の外交に対して厳し過ぎ、他面、甘過ぎるものとなっている。
厳しすぎるとは、当時の国際状況や関係諸国の対応が適切に捉えられていないという意味であり、甘過ぎるというのは、一方的かつ一気に押しつけたというイメージのため、数々の外交的失態や混乱を見落とす結果に陥っている、という意味である。
実際、当時の日本では、当然かつ控え目な結果を得るのに、無用の国際的騒ぎを引き起こしたという加藤外交批判が一般的だったのである。
以下まず、「二十一カ条要求」に関する、基本的誤認のいくつかを指摘しておきたい。
第2節
最も単純な誤解は、「二十一カ条要求」がそのまま押し付けられて「二十一カ条条約」となったというものだろう。一般向けの教科書や概説書のみならず、かなり専門的な歴史書にもその種の記述は見られる。
が、「二十一カ条」はすべてが通ったわけではなく、二十一カ条「条約」は存在しない。実際、当初の日本側原案と、最終的に出来上がった取極の間には相当な開きがある。
明確に取り下げられた七項目をはじめ、大幅な修正により骨抜きとなった項目がいくつもある。
修正は全面にわたるため、厳密にどの程度減ったと指摘することはできないが、まず半減くらいに見ておくのが無難だろう。
しかも、合意項目の中には、「中国沿岸地域一帯をいずれの国にも貸与しない」といった、消極的性格のものも含まれるため、それらを除いて積極的意味での利権獲得といえる項目に絞れば、「成果」はさらに減ることになる。
石橋湛山(当時、東洋経済新報記者。戦後に首相)のように、消極的性格の条項および諸外国も最恵国待遇を盾に「均霑」を求めた条項を除き、日本単独の利権として残るのは二カ条に過ぎない、と論じることも十分可能である。
すなわちあの外交は、多くの要求を出したあげく、当時の国際状況に於いて常識的なものしか通せなかったのだが、あたかも全面的に押し付けたかの如き印象を振り撒いたという点で、非常に拙劣であった。
なお、「二十一カ条条約」のみならず、「二十一カ条要求」という言葉も充分正確ではない。日本側が提出した取極案の内、「要求」と明示されていたのは十四項目だけで、残る七項目については「希望条項」という言い方がなされていた。
従って、日本側の解釈に即すなら、「十四カ条要求プラス七カ条希望」だった、ということになる。しかし、「希望」と「要求」はどこが違うのかが当然次の問題となろう。
「希望」といっても内実は「要求」と変わらないとする立場に立てば、「二十一カ条要求」の方が用語として適切ということになる。従来の外交史記述では、そうした見方が一般的であったと言える。
確かに、「希望条項」といっても、抵抗を受けて直ちに棚上げされたわけではなかった。「希望」と「要求」が同一の扱いをされた局面も、交渉中何度も現れる。しかし、明らかに区別して取り扱われた側面もやはり存在する。
「二十一カ条問題」を理解する上で、カギになる部分の一つと言えよう。区別があるようでないような「要求」と「希望」との併存こそが事態の紛糾を招いた最大の要因であった。
交渉の詳細については後述することとし、まず日本側要求の中身を見てみたい。
(つづく)

