【天下の大道16】石破茂「核」発言の意義と問題点 |
WILL 2017年11月号
【天下の大道16】
石破茂「核」発言の意義と問題点
島田洋一(福井県立大学教授)
フランスと送電線で繋がっているヨーロッパ諸国が、電発大国フランスで発電された電気を輸入しながら、脱原発・反原発路線を掲げる-。事情を知る人々は、「これらの国を見倣って日本も脱原発せよ」と説かれても冷ややかに受け止めるだろう。
また、それら諸国が、何らかの死活的な事情から(フランスから電力供給を止められるなど)、独自の原発保有という選択をしても、今さら「脱原発の大義への裏切り」とは思わないだろう。
責任ある政治家、言論人なら、他国の動向ではなく、あくまで自国の置かれた状況を基本に、原発保有の是非、その程度を決めるはずである。
「日本核武装」をめぐる事情もこれに似ている。
9月初旬、政界有数の防衛通とされる石破茂氏が、大要以下の発言をして注目された。
すなわち、核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則のうち、日本による保有と製造については「唯一の被爆国が持ったら、世界中のどこが持ってもよいという話になる。核拡散防止条約(NPT)体制が崩壊する」と否定するが、「持ち込ませず」については、「米国の核で守ってもらうと言いながら、日本国内に置かないというのは議論として本当に正しいのか」、「(核の)傘が小さかったら日本の抑止力はどうなるのか」と見直しを促したものである。
その関連で同氏は、核兵器受け入れ国が使用に際して意思決定に加わる「ニュークリア・シェアリング(核共有)」を検討すべきだとも提案している。
時宜に適った問題提起という点で石破氏を評価したい。もっとも内容的には種々の疑問がある。
まず、日本が核武装に乗り出せば、果たして「NPT体制が崩壊する」のか。日本は非核三原則を掲げつつ、「米国の核で守ってもらうと言って」きた。すなわち、公然と核抑止力を利用してきた。石破氏の指摘の通りである。事情を知る人々は、日本をそもそも非核の「聖闘士」とは見ていない。今さら日本が独自核の保有に乗り出したから世界がショックを受けると考えるのは自意識過剰だろう。
インドが本格的に核武装に進んだのは、1962年に自国を侵略した中国が1964年に核実験に成功したのを見てであった。パキスタンの核武装は、その宿敵インドの核実験を見てのものである。イスラエルの核武装は、アラブ側の先制攻撃で一時苦境に陥った1973年の第4次中東戦争を受けて加速された。
米ニクソン政権も、核実験を行わない限りイスラエル核武装を黙認するとの意向を伝えている。インド、パキスタン、イスラエル、いずれの国の核政策にも、日本の意思や動向は寸分の影響も与えていない。
こうした国際政治の現実は石破氏も十分承知だろう。その上で、独自核保有まで主張するのはまずいとの政治的判断から、いわば結論ありきで「NPT体制が崩壊する」などの理屈を持ち出したものだろう。NPT体制がまがりなりにも維持されるかどうかは、日本の動向ではなく、北朝鮮のような露骨な違反者を国際社会が明確につぶせるか否かに掛かっている。焦点を見誤ってはならない。
次に、「米国の核で守ってもらうと言いながら、日本国内に置かないというのは議論として本当に正しいのか」という石破氏の発言は、一見踏み込んだように見えるが(そして日本の政治状況、言論状況ではそうだが)、これまた焦点がずれている。
まず、アメリカは旧ソ連と結んだ中距離核戦力全廃条約(1988年発効)に拘束されている。射程が500kmから5500kmまでのミサイルの相互廃棄を定めたもので、米軍は、ピョンヤンや北京に届く核ミサイルを日本に配備できない。また、米本土から発射する大陸間弾道弾や海上発射の核ミサイルを多数保有するアメリカにとって、日本に中距離核ミサイルを配備する必然性がない。
実際、筆者は過去にワシントンで、日本の政治家が「個人的には米国の核持ち込みを認めてもよい」と本人の意識では「踏み込んだ」発言をし、国防総省高官からやんわり謝絶されるというやや恥ずかしい場面を目撃している。
「ニュークリア・シェアリング」も、核兵器の使用に当たって米国が拒否権を持つ点で独自核とは全く次元を異にする。
ともあれ、石破氏の問題提起を無駄にしてはならないであろう。アメリカの核の傘は、すでに米本土を攻撃できる核ミサイルを保有する中国には効かず、1年以内に北朝鮮に対しても効かなくなる状況が想定される。日本も、独自核抑止力の保有に向けた、真の意味で踏み込んだ議論を始めねばならない。