【天下の大道5】忘れられた攻撃力 |
下記は、月刊WiLL 2016年12月号に載った拙稿です。
【天下の大道5】
忘れられた攻撃力
島田洋一(福井県立大学教授)
1984年10月12日、保守党大会のためホテルに滞在中だったマーガレット・サッチャー英首相を狙った爆弾テロが起こり、首相自身は危うく難を逃れたものの(寸前までいた洗面所は破壊された)、死者5人を出す惨事となった。
ドナルド・ラムズフェルド元米国防長官が、その際テロリストたちが現場に残したメッセージに触れ、次のように述べている。
「サッチャー暗殺を謀った者たちが置いていったゾッとするようなメモを、私はそれ以来、何度も想い起こした。『われわれは一度だけラッキーであればよい。お前は常にラッキーでなければならない』とそこにはあった」。
テロに受け身で対処するということは、いつかは惨事に見舞われることを意味する。積極的に相手の指令系統中枢を攻撃し、脅威を除去していかねばならない。これが、ラムズフェルドが「テロとの戦争」に当たり、肝に銘じた教訓だという。同じことは、核ミサイルの脅威についても言えるだろう。相手は、100発中99発が迎撃されても、一発着弾させれば「勝利」したことになるのである。
防衛白書の定義によれば、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使」する「受動的な防衛戦略」だという「専守防衛」では核ミサイル攻撃、特に飽和攻撃に対処できないことは明らかだ。拒否的抑止(ミサイル防衛)だけでは十分な戦略と言えないのである。懲罰的抑止力、すなわち相手の指令系統中枢に決定的打撃を与える攻撃力をどう確保するかが必須の課題となる。
9月末からの臨時国会で、稲田朋美防衛相が6年近く前に雑誌の対談で行った「長期的には日本独自の核保有を単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべきではないでしょうか」との発言を民進党の辻元清美、蓮舫議員らが追及していた。まさにコップの中の嵐、というべき空疎なやり取りだった。北朝鮮が着々と核ミサイルの実戦配備に動き、中国が覇権主義的行動を強め、アメリカが「自分の国は自分で守れ」とのトランプ・ドクトリンに傾きつつある等々の諸状況に真剣に向き合った議論とは到底思えなかった。
「核兵器の脅威に対しては、米国による拡大抑止は不可欠」と防衛白書にある。懲罰的抑止力は米軍に全面依存するという意味だが、ではその「不可欠」が揺らいだ時どうするのか。
トランプ氏は、かつて一度も「拡大抑止」に触れたことがない。それどころか、米国民の命を危険に晒してまで日本を含む同盟国に核の傘を提供するつもりはないとの意思を半ば明らかにしている。ヒラリー氏についても、米国の政治家である以上、「米国民の命第一」が当然基本となろう。北朝鮮や中国が対米核戦力を充実させてきた時、日本にとって「不可欠」でもアメリカにとっては「不可欠」でない拡大抑止の提供にどこまで踏み込むか、結局、世論の風向き次第だろう。
10月5日、参院予算委において蓮舫氏が稲田防衛相に、「(雑誌対談)当時は、核保有を国家戦略として検討、いまは非核三原則を守る、なぜ変わったのか」と迫ったのに対し、稲田氏は、「安倍政権になって、かつてないほど日米同盟も強固になっている。当時は日米同盟がガタガタだった。現時点の私の考え方は、核のない世界を実現するため全力を尽くすということ。現在、核保有については全く考えていないし、考えるべきでもないと思う」と答えている。
これを受けて蓮舫氏は、「気持ちいいぐらいまでの変節」とその場では非難したものの、翌日の記者会見で、「発言が違ったことへの説明は納得していないが、『今はこういう立場だ』と言っていることは、防衛相として不適切ではない」と矛を収める姿勢を見せた。攻めるべきは攻め、同時に物わかりのよさもアピールできた、と本人は自慢なのだろうが、単に問題意識の欠如を示すものでしかない。
米国の核の傘の信頼性に揺らぎが見える中、「現在、核保有について全く考えていないし、考えるべきでもない」と防衛相が明言するなら、通常戦力の枠内で日本独自の懲罰的抑止力をいかに確保するのか具体策を示せ。それがあるべき質問だろう。「核保有は考えない」で思考停止し、懲罰的抑止力全般に目をふさぐことは、防衛当局者として許されないからだ。
ところが、問う側に問題意識がなく、答える側にも過去に示した問題意識を発展させる構えが見られず、それをまた問う側が一応適切な答えと論評して一段落という図は、一片の空騒ぎという他ない。