オバマの負の遺産と大統領選に見るアメリカの混迷 |
下記は、いぶし銀保守の『時事評論石川』2016(平成28)年2月20日号に掲載された拙稿です。ここにも転載しておきます。
■オバマの負の遺産と大統領選に見るアメリカの混迷
島田洋一(福井県立大学教授)
今年11月8日の投開票日に向け、アメリカ大統領選挙が本格化してきた。米国民にとっては、有力候補たちの税・社会保障政策、教育改革、国内テロ対策などが当然関心テーマとなろう。それらは海外にあっても、自国の同種の問題を考える際参考となる。ただし、日本をはじめ関係諸国にとって、最大の関心事は、今なお他を圧する力を持つ米軍の最高司令官たる大統領が、その力をいかに国際的なリーダーシップ発揮へと転化しうるかだろう。
中国共産党政権、イスラム・テロ集団など自由主義的理念を敵視し、文明社会のルールに冷笑的姿勢を取る勢力が各地で台頭する中、世界最強の米軍を動かす(あるいは動かさない)権限を持つ人物の信頼度如何は国際秩序の行方を大きく左右する。
この点、オバマ大統領はアメリカの信頼性を大きく損ねた。とりわけ決定的だったのは、衆人環視の中で揺れ続け、最後はロシアのプーチンに頼って失態を糊塗したシリア問題での対応だろう。
以下、当事者の1人元国防長官レオン・パネッタ(在任期間2011年7月~2013年2月)は回顧録に従って、経緯を簡単に辿っておこう。
2011年3月、政治犯釈放を求める大規模デモが起こるなど、「アラブの春」がシリアのアサド世襲独裁政権をも揺るがすに至った。アサドは仮借ない弾圧で応じる。国連安保理での制裁決議は、アサドと密接な軍事関係を持つロシアの拒否権行使によってすべてブロックされた。この間、米側では、国防総省がシリア軍事施設への限定空爆案を国家安全保障会議に提示したものの、政権最上層の同意は得られなかった。
しかし2012年8月、暴力的事態の深刻化を受け、オバマはアサドに退陣を求めると共に、「もし化学兵器が使われれば最後の一線(red line)を越えたことになる」と警告を発した。軍事力行使を示唆する発言である。
2013年8月21日、アサドがサリン・ミサイルを反政府勢力に対して使用、426人の子供を含む1429人の死者が出たことが確認された(国連報告書)。
「ここでオバマ大統領が揺れ動いた。まず攻撃命令の構えを見せ、次いで態度を後退させて議会に判断を委ねるとした。対立関係が深まっていた議会多数派が責任の肩代わりに応じるはずもなく、これは何もせぬことと同義であり、オバマもそのことは分かっていた。結果は、アメリカの信頼性に打撃をもたらした。最高司令官たる大統領がレッド・ラインを引けば、それが越えられたとき行動に移ることが決定的に重要である。アメリカの言葉は、そのままアメリカの力でなければならない。冒険主義を抑止するためにも、同盟国との関係を維持するためにも、シグナルの明確さが重要となる。アサドの行動は明らかにオバマ大統領の警告を無視するものだった。それに対応しないことにより、アメリカは世界中に間違ったメッセージを送った」。当時の国防長官がここまで書くというのは余程の事態と言わねばならない。まさに歴史的失態である。
結局、アサド政権を存続させたいロシアが、シリアが残余の化学兵器を放棄、海外搬出するという調停案を提示し、オバマ政権は渡りに船とこれに乗った。
しかしパネッタは、その後2014年にアサドが化学兵器の一種塩素ガスを反対勢力に使用した確たる証拠があると書いている。2015年の3月から5月に掛けても塩素ガスが使用されたと報じられている。化学兵器放棄という合意自体、レッド・ライン越えを不問に付す誤魔化しの収拾策だが、その合意すら守られてはいない。そもそも化学兵器は秘匿が容易な上、通常の薬品工場でいつでも再生産可能である。また、国際ルールを無視して利権確保に邁進するプーチンに借りを作ったことも重大な外交的失点と言える。
共和党の大統領候補たちは、皆これらの点でオバマ政権を厳しく批判しており、パネッタに続き、後任のチャック・ヘーゲル前国防長官もやはり「アメリカの信頼性を損なった」とオバマ批判の言葉を記している。が、あくまでオバマを弁護する元政権幹部もおり、その代表が民主党の有力大統領候補ヒラリー・クリントンである。
ヒラリーは、国務長官在任中、アサドを「改革者」と呼ぶなど判断力の欠如を露呈していたが、最近になっても、シリアの化学兵器の海外搬出はオバマ政権の「大きな成果」だと述べている(2016年1月17日テレビ討論会)。
ロシアの調停を受け入れた時点ではヒラリーはすでに国務長官を退任しており(後任のジョン・ケリーが事に当たった)、直接の自己弁護の動機はないため、選挙戦に当たりオバマ周辺の支持を得たいという思惑に発するものだろうが、この言葉だけでも、ヒラリーは米大統領として不適格と言わざるを得ない。
目下、中国共産党政権が、日本の領土である尖閣諸島を手中に収めるべく軍事的策動を続けている。安倍政権下、日本側も対抗措置を講じているが、有事における米軍の速やかな来援可能性が対中抑止力を構成する重要要素となる。
日米安保条約第5条は、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」があった場合、両国がそれぞれ「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動する」とあるのみで自動参戦条項とはなっていない。シリア情勢におけるオバマ政権のような行動マヒを米国が起こすと中国側が認識すれば、事態は危険な方向に流れかねない。
ブルッキングス研究所やニューヨーク・タイムズなど民主党系のシンクタンカーやジャーナリストには、尖閣のような小さな無人島をめぐって米中が軍事衝突などあり得ないと公言する者もあり、その分、特に民主党政権下では、大統領の意思が重要となる。ヒラリーについて唯一の慰めは、馬鹿にされたと感じると感情的に反発する分、常に良くも悪くも冷静なオバマよりまし(相手にとっては反応が読みにくい)ということぐらいだろう。
なおヒラリーは、オールド左翼のバーニー・サンダース上院議員に支持率で並ばれる中、高額所得者への増税、TPP(環太平洋連携協定)反対など立場を左旋回させている。そのため民主党内でも、機会主義的出世主義者(opportunistic careerist)と揶揄する声が高まっており、初の女性大統領誕生に向けた熱気といったものはもはや感じられない。
共和党側の有力大統領候補においては、マルコ・ルビオ上院議員にように「尖閣は日本の領土」と明言する正統レーガン保守もいるが、懸念されるのは、支持率でトップを走り続けてきた不動産王ドナルド・トランプである。
全米に1200万人といわれる不法移民の強制送還を含め異邦人流入に厳しく対処するとし、ポリティカル・コレクトネス(きれい事の建前や言葉狩りを指す)に露骨に挑戦する「マスメディアを恐れない」姿勢が反エリート層の人気を博するトランプだが、自由社会のリーダーとして指導力を発揮するといった理念的姿勢は見られない。彼が目指すのは、自身認めるように、アメリカの利益第一主義に立つタフな取引屋(deal maker)であって、それ以上でも以下でもない。
トランプは、シリア問題ではプーチンとの協調を打ち出し、「プーチンの黙認のもと、ロシアでは多くの反政府政治家、ジャーナリストらが殺害されているというが、どこにも証拠はない」「プーチンはとにかく一個のリーダーだ」といった発言を繰り返している。中国の習近平とも平気で「握る」のではないか。
自由社会のリーダーを選ぶはずの選挙が、本稿執筆の1月末現在、ヒラリーとトランプというおよそ似つかわしくない人物を中心に動いている。ともかく懸念を以て注視していきたい。