地村保志、富貴恵夫妻と懇談―(付録)拉致現場の写真 |
昨日、西岡力氏(救う会会長)とともに福井県小浜市を訪れ、地村保志、富貴恵夫妻と夕食を取りつつ懇談した。9月16日に東京で開かれる拉致問題「国民大集会」の準備も兼ねての会談だった。
地村夫妻は、言うまでもなく1978年7月7日七夕の夜に発生した北朝鮮による拉致事件の被害者である。
丘の上にある展望台から、当時婚約中の2人は4人組の男に拉致された。男の一人は横田めぐみさん、原敕晁さん拉致などにも関わった工作員・辛光洙(シン・グァンス)、他の3人は工作員の物理的補助に当たる戦闘員と見られる。辛は北で夫妻の朝鮮語教育などにも当たった。
地村さんらが車を停めて、展望台の最上部に上がると、下のベンチに別のカップルが一組見えた。男たちは威嚇的な徘徊で、そのカップルを立ち去らせた後、階段を静かに上って背後から地村夫妻を襲った。
猿ぐつわを噛まされ、後ろ手に手錠を掛けられた夫妻は袋詰めにされる。男たちは、二人を担いで坂道を下り、国道を横切って、さらに下の海岸まで降り、停めてあったボートに乗せた。富貴恵さんは海岸で袋から出されたものの、怖くて、死んだふりをしていたという。
地村さんは、袋詰めのままボートに乗せられた。海に投げ込まれるのではという強い不安を感じたそうだ。また手錠が食い込んで痛く、北に着いてからも傷の治療を受けたという。
ボートは、おそらく近くの無人島(青島)の島影に隠れていた子船(といっても大型ゴムボートが船腹に入るだけの大きさ)に収容され、子船は更に沖合で待つ母船に収納され、北に向かったと見られる。
小泉訪朝を受けて日本に「一時帰国」を果たした地村夫妻は、北の思惑に反し「子供たちを日本で待つ」決断をする。もちろん不安もあったが、「子供たちは必ず取り戻すという安倍さんの言葉が決め手になった」(地村保志氏)という。
当時官房副長官だった安倍氏の言葉は、温かく、強い上に正しかった。
「残ってもいいけど、子供たちがどうなるか分かりませんよ」という田中均外務省局長の言葉は、冷たく、惰弱な上に間違っていた。
北に渡った当初、地村さんの待遇は工作員並み(すなわち北の標準よりかなり高い)で、例えばビールのストックがなくなるとすぐ同量が補充されるという状態だった。もっとも、北の経済悪化とともに待遇も劣化していったという。
北の経済(というより、上からの絶えざる妨害による不経済)はますます悪化している。他の被害者も、早く取り返さねばならない。下記エントリ参照。
■田中均氏の奇妙な反論
http://island.iza.ne.jp/blog/entry/3115643/
■田中均氏の「楽しい世界」―安倍外交への隠微な忠告
http://island.iza.ne.jp/blog/entry/3142340/
地村夫妻が北朝鮮の4人組に襲われ、拉致された現場。小浜公園の展望台。
地村氏が車に煙草を取りに降りたところ、ここで数名の不審な男が煙草を吸っていたという。
展望台から、下にベンチがいくつか見える。当初別に一組カップルがいた。
別角度から見た展望台。写真ほぼ中央、海上にある小島が工作子船が島影に潜んでいたと思われる青島。
展望台に通じる道路。ここが逃走経路とすると、拉致犯たちは、地村さんらを担ぎ、約600メートルの距離を小走りに降りたことになる。富貴恵さんは、がんがんという着地の衝撃でおなかが痛かったという。
展望台からの細い山道。ここを使うと降りきるまで約110メートル。車に行き会うリスクもない。私も降りてみたが、途中まではつづら折りで、特に困難は感じない。
山道の最下部付近はかなり勾配がある。
地村保志さんがボートに乗せられたと思われる小浜湾の一ノ浜
一ノ浜に隣接する二ノ浜。富貴恵さんは海岸で袋から出されたというが、保志さんの姿をまったく見ていないので、あるいはこの二ノ浜から第2のボートに乗せられたかも知れない。工作船が大型ボートを二つ積んでいた例はある。