フルシチョフの家族帯同・13日間の訪米がもたらしたもの |
1959年のフルシチョフ(ソ連第一書記)訪米は、今では考えられない形のものだった。
まず滞在日数が13日間と非常に長い。しかも家族帯同で、夫人のみならず3人の子供も同行している。
豊かで自由なアメリカ社会をまの当たりにして、家族ともども強い印象を受けるだろう、というのがアイゼンハワー米大統領の思惑だった。一方、保守派の間では訪問反対運動も起き、もともと存在したアイゼンハワー不信を高めることになる。
フルシチョフ一行は、ワシントン、ロサンジェルス(子供たちが強く希望したディズニーランド訪問は警備の関係で実現せず)、アイオワ州の成功した個人経営大農場などを回った(写真)。
その結果どうなったか。
戦後アメリカを代表する保守派知識人ウィリアム・バックリー(1925-2008)は次のように総括している。
アイオワにおけるガースト(農場経営者)との会談は、政治問題の優越を裏書きした。会談は1959年9月に行われた。フルシチョフは、1961年8月にベルリンの壁建設を命じている。1962年の夏には、彼はキューバにソ連製ミサイルを据え付け、世界を核戦争の瀬戸際までもっていった。その間、ソ連の農業生産はフルシチョフが権力を握った1955年のレベルより落ち込んでいる。
(原文) The meeting in Iowa with Garst underscored the primacy of the political question. That meeting was in September 1959. Khrushchev ordained the
スターリン批判を行い、比較的開放的と言われたフルシチョフですら、実態はこうだった。
スターリン以下の金正日が行う中国視察などに改革開放の胎動を見てきた人々は、もっと早く歴史に学ぶべきだったろう。
※ 参照
William F. Buckley Jr., Flying High: Remembering Barry Goldwater, 2007
バックリー(左)とロナルド・レーガン
【ついでに】
韓国ソウル市内には、色々変わった形のベンチがある。上はその一つ。コリアナ・ホテルから西に歩いて数分のところ。