飯塚耕一郎氏の名セリフ 「やつが生きれば生きるほど…」 |
下記ニュースについて
昨夜(7日)、芝公園駅近くの三田会館2階会議室で、拉致被害者家族会、救う会の合同役員会を行った。
飯塚耕一郎氏(家族会事務局次長)も来ていた。金賢姫氏との面会が間近に迫り、メディアの取材攻勢で大変なようだ。言うことは決まっているので、応答ロボットが欲しいと言っていた。
ところで、下記のニュース番組における耕一郎氏の次の発言には大いにインパクトを感じた。
自分の誕生日がうれしいと思ったことないですね。金正日の誕生日が前日にあるということが、一番引っかかる。やつが生きれば生きるほど、われわれの家族は帰ってこられないわけですから。
画面下の字幕にも、「やつが生きれば生きるほど」とそのまま出た。日本の報道史上、画期的と言えるかも知れない。
役員会の場で、「あれはよかった」というと耕一郎氏も笑っていた。名セリフであり、好報道だったといえよう。
FNNニュース(フジテレビ)
2009/02/27 00:59
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00150207.html
北朝鮮拉致問題 田口 八重子さんの長男・飯塚 耕一郎さんが今の心境を語る
北朝鮮による拉致問題で、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚と拉致被害者の田口 八重子さんの家族との面会が、実現に向けて動き出している。
1歳のとき、田口さんを拉致された長男の飯塚 耕一郎さんが、今の心境を語った。
1冊の古びた母子手帳の表紙には、拉致被害者・田口 八重子さんと長男・飯塚 耕一郎さんの名前が記されている。
26日、飯塚 耕一郎さんは「3~4カ月の部分には、『首の座りがちょっと安定しないんだけど大丈夫かな』という、気遣いというか、心配な部分が書かれていますね」と話した。
手帳には、「少しよろけながらも首の座りを維持しているが、首が左に曲がったままでいるようです」などと、母の思いがつづられていた。
1歳のとき、田口 八重子さんを拉致された飯塚 耕一郎さんに、母の記憶はない。
1990年、金賢姫元死刑囚は「日本語教育を受けた李恩恵(リ・ウネ)という女性は、日本から来た日本女性です」と話した。
近く実現する見通しの金賢姫元死刑囚との面会について、26日夜に開かれた救う会の集会で、田口さんの兄・飯塚繁雄さんは、期待感を示した。
飯塚繁雄さんは「(金賢姫元死刑囚に)聞きたいことは、山ほどありますけどね。田口 八重子がどんな思いでいたか、子どもに対する思いとか」と話した。
一方、飯塚 耕一郎さんは、32回目の誕生日となる2月17日、母・田口 八重子さんへの思いを語った。
飯塚 耕一郎さんは「金賢姫さんと話して、母親の人間像とか母親像を構築したいとか、つむぎたいという思いがありますけれども。やっぱり、失われた31年という月日を考えると、100%は取り戻せないですよ」と話した。
31年前に突然引き裂かれた母と息子の溝を埋める手がかりが、金賢姫元死刑囚の存在だった。
金賢姫元死刑囚は「息子の目がとても似ていたので、母親を見ているよう。わたしも感激でした」と話していた。
金賢姫元死刑囚は現在、2児の母親となっている。
金賢姫元死刑囚に会えば、「八重子さん」が母親に近づくのか聞くと、飯塚 耕一郎さんは「本当に近づくかもしれないし、全然0.1%ぐらいにしか近づけないかもしれないし、本当にまったくわからないですね。田口 八重子さんを母親としてとらえたい。少しでもいいから、とらえるようにしたいと思いますね」と話した。
そして面会には、八重子さんが残した母子手帳と、へその緒を持参するつもりだという。
飯塚 耕一郎さんは「わたしが田口 八重子の息子なんですよということを早くお伝えしたいと。言葉ではなくて、会うことが一番ものすごい重要だと思っていますし」と話した。
2004年の初会見で、飯塚 耕一郎さんは「まずは、元気でいてくださいとしか、心が詰まってしまって、それ以上のことは何も言えないですね」と話していた。
拉致被害者の息子であることを公表して5年、本当の母親を知らぬまま、32歳の誕生日を迎えた。
飯塚 耕一郎さんは「自分の誕生日がうれしいと思ったことないですね。金正日の誕生日が前日にあるということが、一番引っかかる。やつが生きれば生きるほど、われわれの家族は帰ってこられないわけですから」と話した。
母を思う息子の気持ちに、金賢姫元死刑囚はどのような言葉で答えるのか、注目される。