「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(7)北岡伸一論文批判(その2) |
以下は、旧稿「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(1987年)第2章のつづきである(過去掲載分は、この画面左のフォルダー「論文集」中にあり)。
この章は、北岡伸一氏(東大教授。前・国連次席大使)の「二十一カ条」解釈が事実に基づいていないと批判したものである。
第二章 北岡伸一「二十一カ条再考」批判(つづき)
第三節
北岡氏が、加藤が立てていたと想定する「シナリオ」は、それ自体として見ても、到底「精巧」かつ「巧妙」とは言えないものである。
中心部分だけ再び引けば、第五号(特に第一、三、四項)は「取引材料」であり、「最初に強硬な要求で中国を威圧し、次いで大幅な譲歩で一挙に交渉を妥結させる、そうすれば第五号は初めから無かったことにして列国に示さずにすむ」ということであった。
しかし、このシナリオが効果を発揮するためには、まず袁世凱以下、中国側の当局者が、いずれも揃って非常な小心者でなければならない。
すなわち、要求ではなく「希望」とされている項目まですべて即座に受け入れねば何をされるか分らないと「威圧」され、いつもの暴露戦術に訴えることも思いつかず、日本側が第五号だけは「大幅に譲歩」しようと申し出ると、助かったとばかりその他の項目は受け入れ、交渉を「妥結させ」られてしまう。何とも情けない限りである。
北岡氏は、当時駐北京米国公使であったラインシュの回顧録にある「要求を突きつけられた袁世凱は、その衝撃に口もきけなかった」との一節を捉え、「ラインシュ版のストーリーは、百戦練磨の大総統に対する明らかな過小評価である」と皮肉っているが、私には、北岡版シナリオもラインシュ版ストーリーと同次元のものとしか思えない。
そして実際、中国側は「威圧」されて行動マヒに陥ったりしていない。中国は、いち早く列国やメディアに日本側要求を暴露してプロパガンダ戦術を展開し、その第一回対案(日本側原案に全面的に修正を施し、かつ中国側の要求を付け加えたもの。第五号については、「商議に応じる余地なし」と全文削除している)が出された二月十二日頃には、すでに日本側の要求内容は、希望条項の存在も含め、公然の秘密というべき状態にあった。二月十日には、英国大使が、第五号秘匿に関して加藤を面詰している。
なお、本章冒頭に紹介した通り、北岡氏は、当初の加藤のシナリオのまま事が進んだとは言っていない。加藤がアメリカの反応を読み誤り、シナリオに変更を加えた結果、土壇場で破綻を招いた、というのが北岡説の中心部分である(方針を変えたため失敗したといくら力説しても、それだけでは、方針を変えなければ成功したということの証明にはならないが、そこは問わない)。
氏は、自分の提示した仮説について、これは「ごく常識的なもの」であるにも拘らず「二十一カ条の本格的な研究でこの仮説を真剣に検討したものはない」と述べ、その理由として、「交渉過程における事実が明白にこの仮説を否定しているようにみえる」からとしている。
その「事実」とは、「第一に交渉は、最初期は別として、さほど急いで行われなかった」、「第二に、よく知られているように、第五号は元老の介入によって最終段階で削除されるまで、撤回されなかった」の二つである。
ただし、途中で方針転換があり、交渉の早期決着を排し、取引材料の第五号を温存した、と考えれば、この二つの「事実」も説明がつくというのである。
しかし、ここで氏が挙げている「事実」は、二つとも事実とは言えない。
第一に、交渉は「最初期は別として、さほど急いで行われなかった」とは、日本側が当初速いペースで事を進めたのに、途中でペースを落としたの意だろうが、実際の交渉は、中国側の抵抗に遭って遅延に遅延を重ね、最初期など特にそれが著しかったし、第二に、「第五号は(最終段階まで)撤回されなかった」というのは不正確な表現で、第五号は全項目にわたって日本側がなし崩し的に譲歩し、最終段階ではほとんど骨抜きの状態になっていた。途中ではっきり撤回された項目もある。
上の第一点については、氏自身が論文の中ほどで、次のように事実を整理している。
アメリカその他の列国に、第五号を含む二十一カ条要求の概略が伝わったのは二月二十日過ぎであったが、肝心の日中間交渉は、実はまだほとんど始まっていなかった。
加藤の当初の基本方針は、連日交渉を行い、まず二十一カ条各号を一纒めに(en bloc)交渉して中国の大体の同意を取り付け、しかるのち個別的に細目を詰め、出来るだけ短期間で交渉を終了させようというものであった。
中国は当然強く反対し、外交総長の更迭で時間を稼ぎ、交渉の進め方で個別各条審議を要求して抵抗した。
その結果、要求提出から十五日をへた二月二日にようやく第一回会議、五日に第二回会議が開かれたあと、十二日に中国側の対案提出という運びになったに過ぎなかった。
この記述(間違いなく事実に適っている)と、「最初期は別として」云々の間で整合性は取れないだろう。
第二点、すなわち「第五号は(最終段階まで)撤回されなかった」という言い方は不正確と先に触れたが、そのことは北岡論文に重大な欠陥をもたらしている。同論文の結論部分から引いておく。
最も重要な要求というのを、交渉を最も紛糾させた要求という意味にとれば、それは第五号第一、三、四項、すなわち顧問、警察、武器問題であった。日本はこれらについては大幅な譲歩をする予定であった。いや、むしろ、その譲歩の大きさを際立たせるために、当初の要求は故意に過大に作られたものであった。
しかし、中国は第五号の交渉に応じなかったため、この譲歩は中国側には伝達されなかった。また日本も、アメリカの意外に好意的な反応に接し、焦点であった第二号第二、三項および東部内蒙古問題を一層有利に解決しようとし、そのための取引材料として最終段階まで第五号を温存したのであった。
最後の「第五号」には、氏の文脈に照らし、少くとも「第五号第一、三、四項」の三つは含まれておらねばならない。
しかし、三つのうち第一項及び第三項は、すでに中途で撤回されている。
すなわち、そこを境に交渉が「危機に突入した」と北岡論文が強調する四月十七日(第二十四回会議)以前に、第五号第三項は三月九日の第八回会議において日置公使によって撤回が声明され、第一項も三月二十七日の第十五回会議において事実上撤回されているのである。無論、「この譲歩は中国側には伝達されなかった」どころか、はっきり伝達されている。
「二十一カ条」問題全体に占める重要性に鑑み、以上をやや詳しく敷衍しておきたい。
まず注目すべきは、二月十六日に閣議決定されて日置公使に伝えられた「中国側対案に対する我最終譲歩の修正案」(以下、「二・一六譲歩案」と略す)である。これは、譲歩の限度を知っておきたい、とする日置の請訓に応じて発せられたもので、その時点において「我方に於ける最終譲歩の限度なり」と意識されていたものである。
はじめに、第五号第三項について見てみよう。次のように修正されている。
第三項警察権のことは、支那政府に於て甚だ困難を感ずるものかとも察せらるるに付、差向撤回すべし。(中略)第二号第六条中に前記の如く警察顧問又は教官を加ふる事としたるは、本項削除の結果と御承知ありたし。
ここで言及されている第二号第六条を、もう一度引用しておく。当初、中国側に示された原案である。
支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治・財政・軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先づ日本国に協議すべきことを約す。
この条項は、「二・一六譲歩案」で、「『政治・財政・軍事』の外『警察』を加へ」置くこと、と修正された。
もう一つ続いて引用しておく。これは、交渉の進め方に関する指示である。
貴官が支那当局と交渉せらるるに際し、直ちに此最終限度まで先方に開示せらるるか又は徐々に我妥協の態度を示し成る可く最終限度に達する事なくして交渉を完結せらるるか、其辺の駆引は一に貴官の裁量に任す事と致すべきに付、右御含の上遺憾なく折衝せらるる様致度し。
さて、この訓令を最初から読んでいったとき、第二号第六条に至って、幾分奇異な感じを覚える。「最終譲歩案」である以上、当然他の項目は、原案より緩和、もしくは原案通りとされているのに、この項目だけは新たに「加へ」られた部分がある。第五号第三項まで読み進むに至って、始めて、なるほどと納得がいくが、ということはすなわち、第二号第六条の修正(追加)と第五号第三項の修正(撤回)とは、両方併せて一組のものとして提示されない限り筋が通らない、ということである。
原案よりさらに加重された第二号第六条修正案のみを、交渉も半ばになった段階で示されたなら、中国側としては納得しがたいであろう。
したがって、第二号第六条修正案を持ち出す以上、その前に、あるいは同時に、第五号第三項撤回の意思を伝えざるを得ないのである。
当然そう判断したためだろう、三月九日の第八回会議で第二号第六条の修正案を提示するに当たり、日置は、第五号第三項は撤回する旨、併せて伝達した。
(つづく)
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