伊豆見元氏をたしなめる |
伊豆見元氏をたしなめる
島田洋一(福井県立大学教授)
『諸君!』2005年3月号
NHKにおける北朝鮮問題の解説は、伊豆見元、平岩俊司の静岡県立大コンビと相場が決まっているようだ。
平岩氏は、新聞記事の要約めいた話を生気なく語るだけで、その辺の大学生を連れてきても、即座に代役が務まるだろう。特に論評すべきこともない。
その点、伊豆見氏は遥かに役者が上で、間違っているにせよ一つの主張があり、北に甘いが反米的な姿勢は取らず、枝葉の部分ではなるほどと思わせる発言もする。時間内にコメントをまとめる才もなかなかのものだ。
が、いずれにせよ、このコンビで受信料を払えというのは、無理な話だろう。
私は事情に疎いが、伊豆見氏は民放の報道番組にも、相変わらずよく出ているらしい(福井では、CMを打つ企業数が少ないため、民放テレビ局が二つしかない。夜のニュースも、日テレ、フジ系列のみ。おかげで私は、福井に移って以来、筑紫哲也氏や久米宏氏の顔を見ずに済んできた)。
伊豆見氏がテレビ、新聞、各種シンポジウムなどに頻繁に顔を出すのは、世間の右にならえ的な風潮にのみ依るのではない。マスメディア、学会、政府・外務省などの中に、伊豆見氏と共鳴し合う層が、いまだしっかりと存在するためだろう。そこに伊豆見問題の根深さがある。
以前、国際政治関係の学会で、ある年輩の大学教員が、「金正日が天寿を全うする日まで適度に援助を続け、次の指導者に変化を期待するのが現実的な外交だ」と発言し、周りが頷くのを見て、「こいつらはダメだ」と呆れた記憶がある。
伊豆見氏はここまで露骨な言い方はしない(と思うが、充分自信はない)。「制裁には反対」とはっきり言わず、匂わすだけにとどめる場合も多いようだ。そこにもやもやした後味が残ることになる。
以下、氏の発言から出来るだけ靄を吹き払い、奥にある“構造的欠陥”を明らかにしていきたいと思う。
金正日の更生を邪魔する周囲?
2002年9月17日の小泉第一次訪朝直後、雑誌『婦人公論』の鼎談で伊豆見氏は次のように述べている。氏の“社会観”がよく現れたやりとりである。
伊豆見 9月17日に、北朝鮮はニュー・バージョンを示したわけです。
田丸(美寿々) じゃ、これから変わると?
伊豆見 そこが問題なんですね。北朝鮮が変わるかどうかの前に、われわれがどう見るかが大きいわけです。少し突き放して見たら、北朝鮮が「新しい北朝鮮に生まれ変わりたい」という意思表示をしていることは間違いないんですが、他の国の多くは、額面通りには見ない。みんな「嘘だろう」と見ている。過去の行動があまりにも悪かったからね。
田丸 何かまだ信用できないですよ。
伊豆見 そう、だから、せっかく変わりたいと思っていても、周りが「ダメだろう」と信用しないと、なかなか変わる気が起きないじゃないですか。
つまり、金正日は、ようやく更生の道を歩み出した元・非行少年のような存在で、うまく更生できるかどうかは、周りの態度に掛かっている、なかなか更生できないとすれば、それは周りの冷たい視線のせいだ、といういい加減な弁護士顔負けの「悪いのは社会」式すり替え論法である。
金正日が核ミサイル開発を続け、麻薬・覚醒剤の密輸を続け、常時20万人以上を強制収容所で虐待し続け、拉致問題で嘘を重ね続けるのも、すべて周りの国が金正日を信用せず、いじけさせているからだということらしい。
「少し突き放して見」ることの出来る人にとっては、9月17日に実際起きたのは、金正日が、部下に責任を押しつけて拉致問題を適当にごまかし、日本から多額の「経済協力金」をせしめようと仕掛けた、新手の工作に過ぎなかったことは明らかだ。
それを「生まれ変わりたい」意思表示だと「額面通り」受け取ったというだけで、本来なら専門家失格だろう。
が、伊豆見氏が誤診を認めることはまずありえない。今後も、更生を望みながら受け入れてもらえない金正日というフィクションの世界に生きていくのだろう。
同じ鼎談の中で、金正日個人の資質をめぐって次のようなやりとりも見られる。
田丸 そもそも金正日さんの指導者としての資質をどう見てらっしゃいますか。判断力、カリスマ性、交渉術……。
伊豆見 いろいろなところにいる指導者と同じぐらいの人なんじゃないですか。能力がない人ではないと思います。(中略)
もし彼の地位にいて、すべてまともに考えていたら、多くの人はおそらくノイローゼになると思いますよ。そうならないのは、精神力が強靭だということもあるでしょうけれども、半面、ものすごく楽観的な人なんでしょうね。それで、途中で思考停止をたくさんする人だと思うんですよ(笑)。「これはやばいな」と思ったら考えを止めて、先送りしちゃう。
最後の部分は現象的にはおそらく当たっているだろうが、それにしても、まるで金策に苦労している近所の名物社長を評しているような呑気な口ぶりである。
金正日が実権を振るい始めたのは1974年頃、以来30年以上にわたり、社会に益することを何一つせず、数え切れない人々の人生や経済・文化を無茶苦茶にしてきた悪辣かつ無能きわまりない男が、それなりの「指導者」とは不思議な感覚である。正義感なき俗物にして、初めて可能な評言であろう。
「口実に使われる」という口実
横田めぐみさんの“遺骨”と称するものが全くの別人のものと判明し、世論が一段と硬化する中、昨年12月19日放送のNHK『日曜討論』で、伊豆見氏は、拉致問題での制裁発動に疑問を投げ掛け、次のように述べていた。
北朝鮮は、拉致問題で制裁を掛けてくる日本とは(六者協議で)同席できない、日本をはずせと言ってくるだろう。ロシアと中国は北に理解を示すだろう。アメリカは日本を支持してくれるだろうが、日米対(韓国を含む)4カ国という構図になる。北としては、うじうじと事を引き延ばす口実が出来る。六者協議がうまくいかなかったとき、北だけでなく、日本にも責任があるといわれる。
明言は避け、匂わすにとどめているが、要するに「相手が口実に使いかねない」という口実で、制裁実施に反対しているわけである。続いて次のような発言もあった。
拉致に限った制裁をし、六者協議をつぶしたということになると、中国が、日本の安保理常任理事国入り反対の口実に使ってくる恐れがある。拉致で制裁をするというのは、そういうことだ。
ここでも制裁反対を匂わす手段に、「口実に使われる」という口実が使われているが、北朝鮮や中国が何かの「口実」に使いかねないから正当な国家意志の発動を控えるということになれば、日本は今後、主体的な外交など一切出来なくなる。
伊豆見氏としては、「制裁は効果がない」論が、安倍晋三氏らから意外に強い反撃を受けたため、「口実」論で立場を補強しようとしたらしいが、逆に、主体性を欠いた根無し草たる本性を一層さらけ出す結果に終わったようだ。
北京や平壌は、日本世論に有効と見れば、何でも口実に使ってくる。「何を口実にしようが日本は動じない。日本をはずすというなら、五カ国でやればよい。日本は、国連安保理の場に北朝鮮制裁決議案を出し、中国に、拒否権を発動するかどうかの踏み絵を踏ませる」ぐらいの姿勢で、取り合わないのが正解だ。
なお、伊豆見氏は、北朝鮮のテポドン発射(98年8月)に絡んで、日本政府が朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)への資金供与を凍結したことを批判し、次のように述べている。(『ボイス』1999年8月号)
思うに日朝二国間で可能な制裁はまだ残っていたはずである。たとえば日朝間の貿易を中断することである。これは北朝鮮に対して効果的なダメージを与えうる制裁措置であろう。(中略)あるいは在日朝鮮人の人たちの往来を禁止する。少なくとも北朝鮮からの船を止めるという措置もあった。ところがこうした在日朝鮮人、あるいは朝鮮総連にかかわる制裁には手をつけなかった。そのかわりに多国間協調の場であるKEDOで制裁をしたのである。はたしてこれでよかったのか。
あるタイプの制裁に反対するため、別の政治的に困難な(当時として)タイプの制裁措置を「効果的なダメージを与えうる」と持ち上げ、やり方がおかしいと不満を述べる。
ところが、政治状況が変化し、それら「効果的なダメージを与えうる」制裁措置が現実性をもって立ち現れてくると、一転して「効果がない」「口実に使われる」と反対に回る。
要するに北への制裁を阻止したいわけだが、まさに何の論理的一貫性もない御都合主義の最たるものであろう。
「拉致最優先」で核後回し?
伊豆見氏は、「日本側は、拉致最優先で、核、ミサイル、経済協力の具体的中身の議論など、すべて後回しになっている。それらも含めた包括的な正常化交渉に入るべきだ」と常々主張している(例えば、前出NHKの座談会)。
これが、核やミサイルの分野でも、経済的圧力を武器に、強く北に迫るべきだという意味なら、私も賛成だ。
例えば、昨年五月の第二次訪朝時、小泉首相は、金正日との会談を適当に終え、北が監視する中でジェンキンス父娘を「説得」するという猿芝居を演じて帰ってきた。無意味な「説得」に時間を空費する代わりに、核・ミサイルを含め、金正日を直接追及すべきことはいくらでもあったはずだ。
小泉氏は拉致もいい加減、核もいい加減だから駄目なのであって、「拉致最優先」の結果、核・ミサイルが置き去りにされているといった事実はどこにもない。
もっとも伊豆見氏が「包括的な正常化交渉」という場合、その眼目は、日本から提供する経済協力の中身を具体的に詰めるべきだという点にある。北朝鮮が「正常化交渉」の最重要議題と主張するのもまさにその点だ。危険な罠がここにある。
今もし、経済協力の中身の議論に入れば、北は日本企業の関心を引きそうな「インフラ整備事業」を次々打ち出してくるだろう。昨年秋、朝鮮総連が仕組んだ「ゼネコン訪朝(未遂)事件」に明らかなように、利権をエサに日本側を揺さぶり、「あの少数の家族さえ諦めてくれれば、すぐにでも儲け話が飛び込んでくるのに」という世論を醸成しようというのが北の狙いである。
そして危ういのは、本誌(昨年12月号)でも高島肇久外務報道官の論文を批判する形で指摘しておいたように、首相官邸、外務省、与野党政治家などの中に、意識的にせよ無警戒からにせよ、これに呼応する勢力が根強く存在するということだ。伊豆見氏は彼らの代弁者なのである。
私も、拉致問題が解決するまで「正常化交渉」に入るべきでないと主張している一人だが、それは、核問題は後回しでよいという意味ではまったくない。みすみす相手に「利権カード」を与えるような愚かな外交をするなと言っているのである。
私は、拉致も核も、金正日体制をつぶさない限り解決しないと思っている。したがって、拉致よりむしろ核問題で北に制裁を発動すべきという人がいれば、「それで結構、共闘しましょう」と応える。
以前、伊豆見氏があるテレビ番組で、北朝鮮への「人道支援」が仮に軍に回るとしても、軍の暴発を抑えるための安全保障費と考えれば損な話ではない、と語るのを聞いて唖然とした記憶がある。北朝鮮の権力構造に余りに無知な議論だからだ。「暴発」する主体はあくまで金正日であって、一般の兵士はどんなに腹が減ろうと勝手に動くことなどできない。
北への食糧援助を正当化するためならどんな理屈も用いるという伊豆見氏の姿勢は、その後も変わっていないようだ。
第二次小泉訪朝直後、伊豆見氏は、小泉氏が「人道援助」を約束したことを高く評価し、次のように書いている(『中央公論』2004年7月号)。
(北朝鮮側に)「自らがきちんとしたことをやれば、日本も応じる」のだと考えさせるきっかけになったものと思われる。(中略)ただ“人道的”と言ったからには、小出しでもいいから支援を続けるべきだ。継続して支援を行えば、北朝鮮は日本からの支援を将来も続くものと考えて、これを当てにするようになる。当てにすればこそ、日本側が突然止めたとき、北朝鮮に与える影響は大きい。(中略)いわば、北朝鮮を一種の支援依存の状態にしてしまうことが大事だ。依存状態にした後に、支援を与えたり与えなかったりすることでコントロールするぐらいのずぶとさが、日本外交に必要なのだ。
一体何が「ずぶとい」のかよく分からないが、これを読んでいて、私は落語の「饅頭こわい」を思い出した。もし伊豆見氏が日本政府高官で、私が北朝鮮の交渉担当者なら、次のようなやりとりが展開されることになろう。
北の担当者 伊豆見先生、わが国を支援食糧漬けにするというのは厳しすぎる。まさか、「次はエネルギー支援漬け」というわけではないでしょうね。
伊豆見 いや、個人的には、そこまで踏み込まざるをえないと考えています。
北の担当者 しかし大量のハイテク機器を送り付けるのだけはやめて欲しい。軍や工作機関の中枢から末端まで日本製コンピューターが浸透してくるかと思うとゾッとする。
伊豆見 ずぶとすぎるといわれるかも知れないが、コンピューターについても、すでに、いつでも万景峰号に強制搬入できるよう準備すべきだと、総理に進言済みです。
北朝鮮は、現在すでに日本からのさまざまな物資の流れに依存している。その流れを断ち切っていくなら、伊豆見氏が言う「ずぶとい」外交が即座に実現するだろう。
ところが伊豆見氏は、そうした“現状よりも減らす行為(制裁)”については「効果がない」として頑なに退ける一方、“現状よりも増やした上で、増加した分について減らす行為”の場合には「影響は大きい」と主張する。何とも支離滅裂な理論というほかない。
伊豆見氏が「小出しでもいい」という程度の食糧支援を、将来のある日、日本が打ち切ったところで、それこそ簡単に中国や韓国によって穴埋めされ、何の効果もないだろう。
とにかく何かを北に渡す方向にしか頭も体も動かないというのは、河野洋平や蘆武鉉にも見られる宥和主義者共通の症状である。
支離滅裂といえば、伊豆見氏が、自分も拉致を重視していると印象付けたい時に使う「私は拉致問題に過度にこだわることには反対だが、ここまでこだわりながら変な形で収めるのはもっと反対だ。日本外交が何を目指しているのか、国際社会からみて分からなくなるからだ」(例えば、朝日新聞2000年8月6日朝刊)というセリフも相当なものだ。
では、「国際社会」がよく見ていなければ、「変な形で収め」てもよいのか。
ここには日本人の一人として戦いに参加する、という意識が完全に欠けている。
そのくせ言葉の調子は妙に強い。
はったりだけで世渡りしてきた伊豆見氏の面目躍如といったところだろう。