書評: 福田恆存論 |
下記は、月刊誌『諸君!』2003年11月号掲載の書評である。
書評:中村保男『絶対の探求-福田恆存の軌跡』(麗澤大学出版会)
島田洋一(福井県立大学教授)
私は20代後半の一時期、毎日、福田恆存の文章ばかり読んでいた。今から20年近く前になるが、その頃すでに、新刊書店で手に入る福田の本はそう多くなく、古本屋街を回ったり、図書館で雑誌のバックナンバーに当たっては、単行本未収録の短文や対談をコピーし繰り返し読んだ。
今の若い世代にとっては、とりあえず福田恆存全集全8巻(文藝春秋)があり、福田への接近という点では、われわれの世代よりむしろ恵まれているといえる。
腰の据わった姿勢から、物事の本質を鋭くしっかりつかみ、自在のレトリックで論争相手を翻弄する福田恆存の姿は、私にとってまさに理想の言論人そのものだった。
当時、大学院で指導教官だった高坂正堯教授を囲んで懇談していた折り、たまたま誰の文章がうまいかという話になり、そのとき高坂教授が発した「福田恆存かな。最近ぼくのことも色々批判してるけどね」という言葉を今も印象深く覚えている。
「批判」は、その頃福田が書いた「問ひ質したき事ども」という一文を指す。
その中で福田は、改憲論を唱えた奥野誠亮法相(当時)の言を、高坂教授が『中央公論』巻頭言において、「不愉快でも沈黙し、なすべき事をなすのが政治家の倫理」と評したことを捉え、「御用学者」の論と冷ややかに難じた(全集第7巻)。
私は、趣旨として福田の議論を正しいと受け取ったが、「御用学者」云々のレッテルについては今でも的はずれだと思っている。そのことについては深入りしないが、ささやかな歴史的証言として、福田の文章をめぐる故・高坂教授の評言を記した次第である。
さて中村保男氏の近著だが、中村氏は長年にわたり福田恆存と身近に接した経験をもち、主にG.K.チェスタトンのブラウン神父シリーズなど英文学の翻訳で著名な人である。
中村氏は冒頭、福田の「人の肺腑を衝く『肉声』の熱度と律動」の魅力に触れ、「福田恆存の一糸乱れぬ端正な、それでゐて諧謔に満ちた文章の的確さに、美的な快感、遊びのゆとり、そして倫理的な感銘を覚えない読者はをるまい」と述べている。
こうした福田の美点を伝えるため、中村氏はいくつも文章を引いているが、最初の引用からしてまことに適切な選択だと思う。一部だけ再引用しておきたい。ソ連の有人宇宙飛行成功が話題になっていた昭和36年当時、マスメディアから感想を聞かれたことを話題にした読売新聞掲載のコラムである(全集第5巻。以下の引用は全集に拠る)。
さういふことに感想などといふものがあらうはずの無いことを言つて断つたが、相手はなかなか承知しない。「驚かないですか」と言ふ。私は「驚きません」と答へる。今度は「人生観を変へなければいけないと思ひませんか」と言ふ。さう言はれて初めて私は驚いた。宇宙旅行が可能になつたから人生観を変へる必要が生じはしないかと考へる、さういふ人生観がありうることをまざまざと知らされて、これはやはり人生観を変へねば現代に附き合ひきれないのかなと、瞬間、そんな憎まれ口もでかかつたが、さすがにそれは言はなかつた。その記者の昂奮してゐる若々しい声の素直な響きだけは、私も素直に受取つたからである。
だが、その青年もやがて昂奮から醒めてみれば、何も人生観を変へる必要の無いことに気づくであらう。ある学者は、これで初めて人間も天上の神と同じ立場に立つたと言つてゐる。何百キロの天上から、あくせく争つてゐる地球を見おろしたら、人間の卑小に憐れみを感じるだらうと言ふのだが、そんなことなら、私は今直ぐ自分の脚で裏山に登つて、千畳敷から富士や箱根連山を遠望し、太平洋を眼下に見おろしただけで充分である。いや、「一本の野の百合」を見つめるだけで充分である。既にイエスが教へハムレットが知つてゐた身近な感動を、今の人間はジェット機で北極を横切つたり、宇宙船で地球と絶縁したりしなければ味はへないといふことに、むしろ神から見放された人間の堕落を見る、私はさういふ人生観の持主である。
中村氏は、「疲れを感じたことがなかつたんだ」「山頂にとまつて、あたりを睥睨している鷲になつた夢を見たことがある」「ぼくは敢へて言へば保存主義者なんだよ」「共産主義は理想だな」といった福田の片言隻句をいくつも書き留めている。
それは本書の大きな価値の一つだが、少なくともそのいくつかについては、前後の文脈も含め、さらに解説を膨らませて欲しいとの感をもった。
なお中村氏は、ベトナム反戦運動が盛り上がり、福田が「アメリカを孤立させるな」「日米両国民に訴へる」などで孤高の論陣を張っていた時期、大磯の自宅で「脣を真一文字にひき緊めて」発したという「これからはもう梃子でも動かない」「今、ぼくが死んでも悲しんでくれる人は誰もゐない。女房が困るだけだ」といった言葉を紹介し、「その後しばらくして或る政治雑誌の編集者と会つたとき、『近頃、福田先生はどうなされたんですか』と訊くので、『commit されたんですよ』と答へると、相手は『批評家は commit しちやいけないのに』と応じた。私は心の中で『先生は批評家をやめられたのだ』と呟いたきりだつた」「平衡感覚時代にも終止符が打たれる時が来た」と記している。
この部分には私は違和感をもった。
“テロとの戦争”について、とかく「ブッシュは単純なカウボーイ」「アメリカこそが最大のテロ国家」といった青臭い反米論が飛びかう中、われわれが「平衡感覚」を失わない上で、まさに福田恆存の当時の議論こそ、読み返されるべき本質論の宝庫というのが私の考えである。
ともあれ本書は一気に読ませる力をもっている。福田恆存については、遠藤浩一氏らが優れた論文を次々発表しているが、そうした中、実に時宜を得た出版だと思う。